推しに感動して「すごかった」しか言えない人が、感想を書き残すのは無意味か?
面白い映画を見た、大好きなアイドルのコンサートに行って感動した、たまたま読んだ本が面白かった。だからこの感動を誰かに伝えたいと思った...。 【データ】現代人が1か月に読む本の冊数 そんな時に、いざ自分の感想を言葉にしてみようとしても、「よかった」「やばい」などの言葉しか出てこず、モヤモヤした気持ちを抱えた経験は、誰しも一度はあるのではないでしょうか。それでも、「「好き」は言語化したほうが良い。」と、書評家の三宅香帆さんは語ります。その理由とは? ※本稿は『「好き」を言語化する技術 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。
なんのために「推し」を言語化するの?
・「感動=やばい!」しか言えなくなる 「推しの素晴らしさを伝える文章」を書こう......! そう気合を入れて、ファンレターを書くための便箋を買ってみたり、SNSアカウントを増やしてみたり、ブログを開設してみたりしたはいいけれど。そのあと、あなたはなにをしますか? 「よし、最近めちゃくちゃよかったライブの感想を書くぞ」と思ったとします。 なにから書こうか? うっ、書くことが思いつかない。「よかった」しか言葉がでてこない。じゃあ、セットリストの素晴らしさを書く? すごく聴きたかった曲が聴けたことについて? あ、それともMCのよさ? 推しの衣装について? ああ、なにから書こう。というか、あのライブの一番よかったところってどこなんだろう? 私は「推しの素晴らしさを言語化しようとしても、語彙力がなくて、いい言葉が思い浮かびません」と相談されることがたまにあります。じつは私も同じで、すぐには言葉がでてきません。「推しの素晴らしさを伝える文章」を書きたいと思うとき、大抵まずは頭の中がわーっと騒がしくなっています。 推しの魅力とか、簡単に言葉にできない。「最高だった」「やばかった」「すごかった」しか浮かばない。「推しを見て感動した」、その先が言語化できない。 でも、私はその状態が悪いことだとはまったく思いません。なぜなら、感動が脳内ですぐに言語に変換されないのは当たり前のことなんです。だって、感動とは言葉にならない感情のことを指すから。