桶川ストーカー殺人事件25年「もういいよ、という詩織の声が聞こえてこない」 がん患った父が続けた講演120回、娘が愛した「ひまわり」に込めた願いは―
「報道機関には正確な情報を伝え、被害者や遺族に寄り添う役割を果たしてほしい。国民の知る権利を背負う責任を忘れないでもらいたい」と憲一さんは語る。 25年の間、全国各地の警察や行政、報道機関、学校など積み重ねてきた講演活動は約120回に上る。心身を患いながらも、長年講演を続ける理由を問うと、憲一さんはこう答えてくれた。 「お父さんもういいよ、今まで頑張ってくれてありがとう、という詩織の声が聞こえてこない」 長年、憲一さんと妻京子さんを支えてきたのは、詩織さんが愛した「ひまわり」の花だった。事件が起きた後、詩織さんの友達がみな、ひまわりの花を持って自宅へやってきた。2人はそこで初めて、詩織さんがひまわりを好きだったことを知ったという。 そして、事件が起きる直前の夏。家族の誰も植えた覚えのないひまわりの大輪が、自宅の庭に突然咲いたこともあった。「強いもんね、ひまわり。勇気づけられ、私も好きになった」と、京子さんは振り返る。 ▽7歳の詩織さんが書いた手紙
2人がずっと大事にしている手紙を見せてくれた。詩織さんが7歳の時、家族で行った「つくば万博」で、未来の「2001年の自分」へ宛てて書いたものだ。 事件から2年後、突然自宅に届いたその手紙は、こんな内容だった。 「2001年のわたしはどんなひとになっているのかな。すてきなおねえさんになっているかな。こいびとはいるかな。たのしみです。」 詩織さんが夢見ていた未来は、卑劣な事件によって、断たれてしまった。手紙の文言は、知人の書道家に書き写してもらい、額に入れて大切にしまっている。 詩織さんの命日から、少し日がたった今年の11月1日、うれしい出来事があった。自宅の玄関先に、憲一さんと京子さんを気遣う内容の手紙と、詩織さんへの花束がふと置かれていたのだ。「こうした反応が、活動を続けていく力になる」と憲一さん。 憲一さんは事件後、自分の名刺に「ひまわりの種」という言葉を刻んでいる。いつかストーカー犯罪が根絶し、安心して暮らすことができる社会がやってきた時、この種が芽吹き、大輪の花を咲かせる日が来ることを信じて。
ストーカー被害を防ぐために何をすべきか、そして社会はどう変わるべきか―。娘を失った悲しみを抱えながらも、憲一さんは未来への希望を胸に、訴えを続けてきた。 25年の歳月を経ても、未だ花開くことのないひまわりの種に、思いは募る。 「いつ咲くかは分からない。でも、大きな花に育ってほしい」