知られざる建築都市、ドイツ・デュッセルドルフの名建築を訪ねて。
ドイツの中で見るべき建築が豊富な都市はデュッセルドルフと聞いて、意外に思う人も多いだろう。実は昔から新しいもの、スタイリッシュなものを受け入れて来たこの街には、世界的建築家による建築から既存の建物をリノベーションした好例、そして現在進行中のビッグプロジェクトまで、注目のトピックがたくさん。街の歴史をひもときながら、建築都市・デュッセルドルフを探索してみよう。 【フォトギャラリーを見る】 1999年、フランク・ゲーリーが設計したビル〈Neuer Zollhof〉が竣工した時、デュッセルドルフの人々は半ば熱狂的に見学に訪れた。それはライン川から引き入れて造られた港の一角で、80年代にいくつかのテレビ局があったことからメディエンハーフェン(メディアハーバー)と呼ばれる地区の運河沿いにある。日本だったらさしずめ人気のタワーマンションでも建ちそうなロケーションだが、条例で住居は建てられないため、再開発の始まった90年代からオフィスビルや商業施設が続々と建てられていった。
以前から空き倉庫に広いスペースが必要なアーティストがアトリエを設けたりしてはいたものの、デュッセルドルフの街の中心から少し離れたこの地域に、テナントを、それもできればメディア関連のクリエイティブな借り手を呼び込むためには何が必要なのか。そのひとつの解がデザインであったことは、ここに建てられたビルの設計者を列挙すれば一目瞭然だ。デイヴィッド・チッパーフィールド、スティーブン・ホール、槇文彦、レンゾ・ピアノ、そしてフランク・ゲーリー……。世界的に活躍する建築家だけでもこの顔ぶれで、うち4名はプリツカー賞の受賞者というのは、なかなか他では見られない。
デュッセルドルフの街づくり デュッセルドルフは人口で言うとドイツで7番目の規模だが、なぜ有名建築家による現代建築が建ち並ぶようになったのだろうか。もちろん、その背景には豊かさがある。豊富な石炭を有するルール工業地帯の南西部にあるデュッセルドルフは“ルール地方のデスク”と言われ、ルール地方で製造業を営む企業の本社機能が集まっている。またライン川沿いという地の理があり、人やモノ、金が集まる場所として、ファッションやデザイン、アートなどの見本市も1920年代から開かれてきた。 それだけに第二次世界大戦では激しい爆撃を受け、古い街並みの多くが失われたが、復興は国内の他の都市よりも早かった。それは美観や暮らしやすさよりもスピードや効率を重視した街づくりだったが、方針が変わって来たのが、90年代だ。 「市の強力な推進により、自動車がひっきりなしに行き交うライン川沿いの大通りを2キロメートル以上に渡って地下化し、地上を遊歩道にしました」(デュッセルドルフ市都市計画課 カイ・フィッシャー) これがターニングポイントとなり、デュッセルドルフはより美しい都市へと変貌をし始める。メディエンハーフェンはこの遊歩道の南端にあり、遊歩道が整備されるのと歩調を合わせて再開発が始まった。もとよりデュッセルドルフは、ドイツでは現在でもファッションの中心地と知られていて、人々はお洒落なもの、新しいものが大好き。比較的保守的なお国柄と言われるドイツで、斬新なものを受け入れる下地がすでにここにはあったのだ。 メディエンハーフェンの再開発が始まるはるか前の1960年、ドイツ初の高層ビル〈Dreischeibenhaus〉がデュッセルドルフに誕生したのも、こうした背景があってのことだろう。この高層ビルが位置する市の中心地、ケー・ボーゲンは、デュッセルドルフの街づくりの象徴的な場所だ。以前は高速道路の高架が頭上を覆い、地上にはトラム(路面電車)が走る非常に騒々しい場所であったのだが、15年ほど前から高架を取り払ってトラムを地下化し、人々が息をつけるような空間を出現させている。