フェンシング・宮脇花綸インタビュー「2大会連続で五輪出場を逃したときは、引退も考えました...」
その意味では(実力のある)上野選手と東選手がそろうなかで、そういう役割ができる3人目の選手になることが、個人的な目標になりました。それができれば、本当にメダルも手に入れられるチームになると思ったし、(上野と東の)ふたりでも流れを作り出せないときに、お互いに助け合える3人目、4人目の選手が出てくることは必要だと感じました」 ――上野選手や東選手を越える、ということは考えなかったのでしょうか。 「上野選手は年下ですけど、(フルーレ団体の)『エースだ』というのは東京五輪のときから感じていたので、私がエースの座を奪おうとはまったく思っていなかったですね。団体戦で、どうやって彼女の9試合目にいい形につなげていくか、ということを考えていました。『個人戦でも勝ちたい』というのはありますけど、まずはメダルに近い団体戦を考えると、彼女の勝負強さというか、そこは重要な部分なので。 (上野選手は)フェンシングのスタイル的にも攻守そろった選手ですし、ポイントを取りにいく、というのは(日本のなかでは)誰よりもうまいのかなと思うので。とにかく、その彼女につなぐこと。(自分は)それだけを考えていました」 ――東京五輪出場が叶わなかったあと、宮脇選手を取り巻く環境もかなり変わったのではないでしょうか。 「東京五輪が終わってから1年間は無職になって、パリ五輪への選考レースが始まったと同時に、現在所属する三菱電機に入って......という感じだったので、確かにそれまでの環境とは変わりました。無職のときはテレビのクイズ番組に出て海外遠征代を稼ぐ、といった感じでやっていました(笑)」 ――東京五輪が終わったあと、世間のアスリートへの評価がガラッと変わったと思うのですが......。 「もともと東京五輪が終わったら、スポーツに対する支援は難しくなるだろうな、と思っていましたし、東京五輪自体に対しての世論の目もすごく厳しかったですからね......。自分が五輪に出られなかったのはありますけど、そういうことも関係なく、東京五輪後というのは、すべてのアスリートにとって厳しい状況だった、というのはあると思います。 でも逆に、すべてを失って『そこから自分でどうしていこうかな』という感じだったので、やりたいと思ったことをやったり、試行錯誤しながらやるのも挑戦だなと思って。当時はわりと開き直っていました。 そもそも東京五輪が延期になった2020年の時点で、もう(五輪に)出るのは難しいのはわかっていました。選考レースは残り1試合しかなく、そこで個人のメダルを獲るぐらいでないと(代表メンバー入りは)厳しい状況だったので。