フェンシング・宮脇花綸インタビュー「2大会連続で五輪出場を逃したときは、引退も考えました...」
(メンバー入りへの)ランキングポイントを稼ぐために『勝たなきゃいけない』『負けちゃいけない』という思いが強くなってしまって、思いきってやるとか、リスクを冒してでも何かをする、勝負にいく、ということが試合のなかでできなくなっていました」 ――実際に東京五輪に出られないと決まったときは、かなりショックだったのではないですか。 「自国での五輪開催はもう一生ないだろうと思っていましたし、(2016年五輪の)リオデジャネイロと東京と2回連続で五輪メンバー入りを果たせなかったので、このまま3回、4回と五輪出場を目指してフェンシングを続けても、ずっと(五輪には)出られないのでは......という思いも生まれて、引退も考えました。そのときはまだ大学を卒業して2年ほどだったので、(フェンシングをやめて)普通に働いてもいいかなという考えも持っていました。 でも、このまま(フェンシング人生を)終えてもどうしようもないというか、(五輪出場が)『ダメだった』で、終わらせてしまうのは不完全燃焼というか......。他にやりたいこともなかったですし、リオ五輪や東京五輪を目指しているときには『パリ五輪まで』という思いもあったので、自分でそう思ったところまでは挑戦したいな、と思いました」 ――リオデジャネイロ五輪のときとは違って、東京五輪では自力で団体の出場権を獲得して、チームも強くなっていることも、このまま「諦めたくない」という気持ちのあと押しになったのでしょうか。 「リオ五輪のときは団体ではなく、個人で出場するのが目標でした。でも、東京五輪では(日本が)団体で出場できることは決まっていて、メダルを狙えるチームになってきていたので、リオ五輪のときとは(五輪への)思いもまったく違っていて......。 そういう意味では、自分だけがどうこうじゃなくて、チーム全体が強くなっていた、というのは本当に大きかったですね。その一員でやりたい気持ちはありましたが、次への思いが消えなかった、というのもあるかもしれません」 ――東京五輪の戦いを外から見ていて、どんなふうに感じられましたか。 「上野優佳選手も、東晟良選手も、東京五輪の時から個人的には本当に強かったと思います。けど、チームとして若すぎたというか、経験もあまりありませんでした。団体戦ではいいときはみんないいのですが、苦しいときにそこからどう立て直すか、悪い雰囲気になったときにチームとしてどうやっていい雰囲気に変えていくか――そういったところが、まだわかっていないチームだったのかな、というのは感じました。 ですから、次のパリ五輪への3年間はそこをどうするか。負けている状況や追いつかれた状況から、どう勝ちにつなげるチームになるかが、課題になると思いました。