なぜ劉備は呉を攻めた? 諸葛亮も趙雲も止められなかった「夷陵の戦い」の原因
西暦221年から222年にかけて起こった夷陵(いりょう)の戦い。蜀の皇帝・劉備がみずから大軍を率いて攻め込むも呉の名将・陸遜(りくそん)に大敗。この敗戦の痛手から劉備は病にかかり、没する。そうした意味でも、官渡・赤壁と並んで三国時代のターニングポイントとなった出来事だ。 戦いの経過や両軍の勝因、敗因を仔細に書き出すときりがないため、今回は戦いの原因および、劉備と諸葛亮らの行動、思惑について述べてみたいと思う。 夷陵の戦いのきっかけは、関羽の死と重要拠点・荊州(けいしゅう)の失陥であった。219年、呉の孫権は荊州の江陵(南郡)を攻めて関羽を捕らえ斬首。劉備と分け合っていた荊州の南部ほぼすべてを手中におさめた。それまで形ばかりの友好を保っていた蜀漢(劉備)と手を切ったのである。 221年4月、蜀漢初代皇帝に即位した劉備は呉への東征を宣言した。ところが6月、劉備と合流予定であった張飛が部下に殺されるという悲劇が起きる。ただでさえ黄忠(こうちゅう)や糜竺(びじく)、軍師として重用していた法正(ほうせい)など、功臣が相次いで他界していた矢先のことだ。 それでも7月、劉備は出陣をやめず親征軍を発する。その結果は周知のとおりで、戦いは1年におよび翌222年夏までつづいた。呉軍の火攻めに敗れた蜀軍は馬良・王甫・馮習・張南・傅彤といった将官クラスが多数戦死するなど、ある意味で曹操が赤壁で喫した以上の大敗といえた。 劉備は命からがら白帝城へ逃れた。そこに孫権が使者を送って和睦を求めてきたため、劉備が応じて戦いは終息。益州・漢中・荊州西部と南部を領有して優位に立っていた蜀漢の勢いは削がれ、ほぼ三国の領域が落ち着いたかたちになる。 ■やはり関羽の仇討ちだったのか 劉備はなぜ、これほど大きな影響を及ぼす局面で軍を興したのか。じつは正史(蜀志・先主伝)に、ハッキリと「東方の孫権を征討して関羽の仇を討とうとした」と書いてある。加えて次のような記述も見逃せない。 「劉備と関羽とは義は君臣でも関係は父と子のようなもの。関羽が死んだのなら、劉備が軍を興して敵に報復できなくては恩愛の首尾が不十分になります」と、魏の劉曄(りゅうよう)が曹丕(そうひ)に進言している。史実における劉備と関羽の関係は、小説のような「桃園の義兄弟」ではなくとも家族同然で、敵国からもそうみなされていた。だからこそ劉備は兵を挙げたと説明されている。 もちろん戦略上、荊州奪回は重要であり魏を倒すために必要だったことはいうまでもない。人を動かす動機の発端に私情・私怨があって、それに大義名分を重ねるのにも違和感はない。