なぜ劉備は呉を攻めた? 諸葛亮も趙雲も止められなかった「夷陵の戦い」の原因
■なぜ出陣を止められなかった? 劉備の思いはわかったが、では勝敗を予見した誰かが出陣を止めることはできなかったのか。また止めた者はいなかったのか。 『三国志演義』では諸葛亮(孔明)が上奏文で出陣の愚を説くも、劉備が聞き入れず出陣する流れになっている。ところが、正史では諸葛亮は敗報を聞いてから「法正が健在だったら東征せずに済ませただろうし、東征してもここまでの危難は避けられただろう」とため息交じりに言ったとあるだけ。結果論だが、諸葛亮も出陣には反対だったとわかる。 そもそも諸葛亮は、なぜ従軍できなかったのか。それは、この年の4月に丞相(じょうしょう)、いわば政務のトップに任じられていたことも大きかったと思われる。建国して間もない蜀の政治いっさいを引き受けた丞相が、皇帝もろとも国を離れるのは考えづらい。 おそらくは彼に期待されていたのは留守中の政務。ちょうど初期の曹操と荀彧のような関係で、主君が出陣するのなら、勝つための兵站確保などが責務となったはずだ。諸葛亮が軍務も兼ね、蜀軍を指揮するのは劉備亡きあとの後半生から。この時点では、ほとんど軍事の実績はない。これに異を唱えるのは、野球でいえば投手コーチが打撃論をいうようなもので、諸葛亮が軍事に口を出すのはありえなかったということになる。 ただ、諸葛亮が止めなくても「群臣の多くが諫めた」(法正伝)とある。その代表がベテランの趙雲(ちょううん)と、益州出身の黄権(こうけん)だ。「先に討伐すべきは曹操であって孫権ではありません。魏を倒せば呉は降伏します」(趙雲別伝)、「蜀軍の船は長江の流れに従って下るので、進むのはたやすくても退くのは困難です」(黄権伝)とあるとおりだ。 しかし、劉備は頑なだった。諫言を聞かず、趙雲には後詰を命じ、黄権には北側に向かう別動隊を指揮させたのである。それを知って諸葛亮は「自分が止めても無駄」と思った可能性はある。が、仮にもし諸葛亮が従軍していたら・・・勝てないにしても早めに撤退させられたのでは。劉備びいきの目線では、そんな希望的観測をしてしまうのも事実だ。 ■劉備の真の狙いは?勝てた可能性もあった? 最後に、劉備は本当に呉を滅ぼすつもりだったのだろうか。いくら怒りに燃えているとはいえ、そう簡単にいかないことはわかっていただろう。おそらく関羽が治めていた旧領、江陵(こうりょう)周辺を蜀の手に取り戻すのが現実的なラインといえた。 どうにか有利な状況に持ち込んでから再び孫権と和睦する。黄権が進言したような七分勝ちができれば、まだ良かったかもしれない。劉備もここまでの持久戦になるとは思わなかったのか、長期対陣になって勝機を逸したように思える。 相手の陸遜も苦労していた。これほどの実戦は初経験で、なかなか味方の将の支持を得られず統率に手を焼いていたのだ。孫権軍にとっても夷陵は薄氷の勝利だった。孫権がすぐ和睦を持ちかけたのも長期戦に参っていたからだろう。 小説の劉備は「戦下手」に描かれるが、実際はむしろ歴戦の将である。呉の討伐まではいかないにしても、あるいは荊州奪回への期待や楽観を持つ人も蜀にはいたのではないか。諸葛亮もワンチャン、荊州が手に入れば自分の理想(益州・荊州から魏を攻める)も再び現実味を帯びると思っていた、というのは考えすぎか。 曹丕が夷陵での戦況を聞いて「劉備は兵事(戦)を知らない」と予言めいたことをいったとされるが、はたして本当だったのか。曹丕が戦上手かは微妙なところだし、戦歴では明らかに劉備に劣る。よって、後付けの台詞か単に強がりだったようにも読めてしまう。 劉備が健在なころ、ほとんど戦場に出なかった諸葛亮だが、白帝城で後を託され、以後軍務にも励むようになる。呉との関係を修復し、蜀の大軍を率いて南征、北伐へと討って出る。劉備の死から2年後のことであった。
上永哲矢