「主筆室でポックリ死んで、秘書に発見される…」読売新聞主筆・渡邉恒雄が生前に明かしていた“理想の死に方”とは《追悼》
――自分の死亡記事を自ら書く、というテーマの『私の死亡記事』(文春文庫)。2000年に自らが書いた渡邉氏の「死亡記事」では、2021年に尊敬する務台光雄と同じ94歳で、カラス駆除中、転落死とある。巨人軍は2000年から2019年まで20連覇だ。 渡邉 野球は、白石(興二郎)社長をオーナーにしたし、僕はもう手を引いているんだよ。この記事を書いた頃は若かったからね。今は野球で時間潰していたら、政治経済を勉強している時間がなくなっちゃう。 ――渡邉氏は「ナベツネ」と呼ばれるのを嫌う。しかし、死んだ翌日のスポーツ新聞の見出しにはおそらく「ナベツネ、死す」と掲載されるだろう。
この齢まで生きたのは、忙しかったから
渡邉 僕は、煙草もやるし、酒もやる。医者の言う事の真逆のことをやってきた。 煙草は、紙巻は舌が荒れちゃうから、葉巻かパイプ。1日中吸うから、紙巻だったら百本超える。中学の時からだから、70年吸い続けたが、肺がんにならなかった。僕は医者によると、ニコチンでがんにならない遺伝子を持っているらしいんだな。 酒は日本酒だったら3合、ウイスキーはダブルの水割り3杯まで。これ以上飲むと気持ち悪くなっちゃう。終戦直後は、焼酎1升一気飲みなんてこともやったね。新宿の道路で寝込んじゃって、起きたら身ぐるみ剥がされて裸だった(笑)。 要するに、この齢まで生きたのは、忙しかったからだろうな。年がら年中頭使って、身体使ってた。 ただ、僕が死んだ後に残すのは、墓石だけだね。実は墓碑はもうできている。中曾根さんに書いてもらったんだ。先祖の墓地に同居している。 1番の親友だったからね。僕も駆け出し、向こうも陣笠議員の頃から勉強し合っていた仲だ。両方とも生きているうちに頼みたいという話をしたら、3日で書いて送って来てくれた。 渡邉氏は、知る人ぞ知る愛妻家で、家族を大事にしている。最期もまた、家族と共にありたいという。 妻は先に死んだ。1人息子は非常に親孝行でね、毎晩僕の家に来て、肩や身体を揉んでくれる。孫は今(2019年)高校生でしばしば僕の家に来てくれている。 家族っていうのは良いもんですよ、本当に。最期の時も傍にいてもらいたい、そう思ってる。