「主筆室でポックリ死んで、秘書に発見される…」読売新聞主筆・渡邉恒雄が生前に明かしていた“理想の死に方”とは《追悼》
捕虜収容所で読む予定だった3冊の本
中学時代から、友達の父親に高級官僚とか、政治家とか、財界人がいて、旧制高校でも仲間の父親に大臣クラスもいた。だから本当の情報が入ってくる。もうミッドウェー以降、どんどん負けている。そういう敗北が決まっている段階で徴兵されたわけだ。 99%、死ぬと思った。残る1%は脱走だ。生き残るには脱走しかないと思った。あの頃、逃亡兵は捕虜収容所に入れられると勝手に空想していて、戦犯ではないから、2、3年で釈放されると踏んでいた。 そのために僕は軍隊にいる時、3冊の本を隠し持っていた。まず、カントの『実践理性批判』とブレイクの詩集。2、3年繰り返し読んでも飽きない本だ。それとポケット英和辞典。逃亡に成功して降伏した時に、英会話が必要になると思ったんだな。見つかっていたら、確実に重営倉(懲罰)だね。 僕は将校になるのが嫌だったから、幹部候補生試験に願書を出さず、陸軍二等兵だった。当時は少尉が真っ先に前線に立たされ、先に死んじゃう。だから「俺は絶対二等兵がいい」と思った。 それで軍隊で特務曹長に「お前は東京大学の学生である、幹部候補生の受験資格がある。受けろ」とこう言われた。僕は「いや、軍隊の根幹は兵であります。私は将校にはなりたくありません」と言ったんだ。これは感心された。特務曹長というのは、要するに下級兵士からの生え抜きだから、元々将校じゃない。兵が良い、大事って言われたら悪い気はしないんだ。でも「しかしな、お前は資格があるんだから、受けろ」となった。僕も「いや、軍の根幹は……」と、このやり取りを2、3回繰り返したら、「バカヤロー!」と怒鳴られたね(笑)。 僕は十サンチ榴弾砲部隊だったんだが、8月15日の段階で鉄のタマが全然なくて、木のタマで練習した。実弾すらなかったんだから(笑)、本土決戦なんて言っていた奴は許せない。本当にバカげた戦争だった。
政治部長だった頃、食道がんと診断された
――1997年、前立腺がんと診断され、全摘出手術を行った渡邉氏。しかし、この時は死を意識しなかったという。 渡邉 僕はこの時、すでにがんについて散々勉強して、がんは治るものだという確信を持っていた。 実は、政治部長だった頃、読売診療所で食道がんと診断されたことがあるんだ。5、6軒の病院を回って、11人の医者に診てもらったが、口をそろえてがんだという。これはもうお終いだと思ったね。40年近く前だから、がんが治るなんて時代じゃない。がんイコール死だった。 それで遺書を書いて、女房に言い渡して、子供はこうやって育てろよ、と。親友に電話して「ウチの倅のこと、将来よろしく頼むぞ」と伝えて、身辺を全部整理した。それで全て終わって夜11時頃、寝室で女房と一緒に寝て、手を握ったわけだ。そしたら女房が、「あなた妙な緊張状態にあって、私の言う事全然聞いてくれなかった。もう一度言うわ。秋山洋先生という虎の門病院の消化器外科部長(後に院長)は食道がんの大家よ」とこう言うんだ。僕はこの人を知らなかった。 すると「知らないわけないじゃないの、同じマンションにいたのよ、ウチの息子と秋山先生の娘は砂場で泥んこになって遊んでた。私は奥さんをよく知ってる」って言うんで、女房が夜遅くに電話をかけてくれた。 それで秋山先生が出てくれて、僕が事情を説明したら、明日からドイツ出張だが、成田発午後4時だから、午前9時に虎の門病院の玄関に来てください、お迎えに出ます、と言ってくれた。あまりの親切にビックリしたね。それで翌日、造影剤飲んだり、3時間かけてありとあらゆる検査をしてくれた。すると先生は「あなたの身体のどこにもがんはありません。これは誤診です」と言ったんだ。もう天にも昇る気持ちだったな。それから僕はもう、がんを恐れなくなった。 20何年か後に僕に前立腺がんの全摘手術を施してくれたのは、垣添忠生先生という日本で前立腺がんの全摘手術をした最初の1人だった。 彼が何故その技術を持っていたかというと、中曾根康弘さんが首相の時に「対がん十か年総合戦略」というものを謳ったんです。その予算で、前立腺がんの名手が集まるミネソタ州のメイヨー・クリニックという所に留学したのが垣添先生だった。 だから中曾根さんには、「あなたの対がん十か年総合戦略のおかげで僕の命は助かった」と言っているんだ。