「マイティ井上さん」が語っていた盟友「アンドレ・ザ・ジャイアント」秘話…「俺とホーガンの試合はストーンズより客を呼んだんだ」
“和製マットの魔術師”、マイティ井上さんが11月27日に亡くなられた(享年75)。後年は貴重なお話を伺う機会が多かった井上さんのプロレス人生を振り返りたい(以下、敬称略)。 【写真】マイティ井上の盟友、アンドレ・ザ・ジャイアントのスケールの大きさを物語る写真。大好きだったビールは何処にあるか、探してみよう!
国際のエースから全日本へ
1949年、大阪に生まれた井上は中学から柔道を始め、2年生で初段に。早くからプロレスラーを目指していたため、江夏豊(1年先輩)も通ったスポーツの名門、大阪学院大学高等学校時代からはボディビルにも傾注した。67年1月、旗揚げしたばかりの「国際プロレス」が新人募集をしていたところに手を挙げ、一期生として入団する。同団体社長の吉原功がもともとアマレスの猛者だったため、デビューまで各大学のアマレス部に出稽古に行っていたことでプロレスラーとしての下地を作った。 入団半年後にデビュー。2年後に海外修業を経て帰国すると、そのスピードある攻めとテクニックで、たちまち注目株に。1973年2月10日、新宿区体育館で行われた全日本プロレスの興行に、国際プロレスが提供マッチの打診を受けると、吉原社長はすかさず、マイティ井上vs寺西勇をプレゼント する。 冒頭で紹介した“マットの魔術師”とは、業師として知られたレスラー、エドワード・カーペンティアのことだが、寺西も後年は“和製カーペンティア”と言われるほど小気味良いファイトで知られた。 果たして勝負は、2人ともノンストップで動き回る20分時間切れ引き分けに。歓声も終始途切れず、翌月には同一カードが国際プロレスで2回組まれ、大人気となった。それぞれ30分時間切れ、45分時間切れ引き分けに終わったが、後者は、更に10分の延長が時間切れに終わり、再延長戦で7分7秒、井上が勝利。計62分を動き回る大熱戦だった。評価は上がり、1974年10月には同団体の看板、IWA世界ヘビー級王座を獲得する。175センチ、110キロ(当時)のやや小兵ながら、一時的に団体エースに上り詰めた。 1981年の国際プロレス崩壊後は、全日本プロレスに移籍。同団体の至宝、アジアタッグ王座は4回(国際プロレス時代の戴冠含む)、世界ジュニア王座を1回獲得している。どうしてもこの時期になると、ベテランとしての味が強調されて行くが、闘志は衰え知らず。熱いファイトが身上だった天龍同盟が試合中に椅子を使うのに激怒し、試合後、天龍と殴り合いを展開したことや(1988年1月27日。大船渡市民体育館大会他、数試合同様の事例あり)、ジャンボ鶴田と組み、発進したての超世代軍(三沢光晴、川田利明、小橋建太、菊地毅)の壁として、彼らを翻弄したことも。 その後はジャイアント馬場らと、前座で“明るく楽しいプロレス”に専心。馬場の5000試合出場記念マッチではパートナーの一角を担い(1993年6月1日。馬場、ラッシャー木村、井上vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、渕正信、永源遙 )、1998年6月の現役引退時には、セレモニーを開催。他団体から来た選手としては異例の厚遇だった。さらにこの時、井上は、馬場の許可なく、「今後はレフェリーとして」活動することをリング上で宣言するが、特に馬場からお咎めもなく、8月のシリーズからすんなりレフェリーに就任。評価の高さがうかがえた。次団体のNOAHでもレフェリーを続行し、2010年5月にこちらも引退となった。