「マイティ井上さん」が語っていた盟友「アンドレ・ザ・ジャイアント」秘話…「俺とホーガンの試合はストーンズより客を呼んだんだ」
人気女優との結婚が話題に
そんな井上が世間の注目を一気に浴びたのが、1977年9月1日。ドラマ「プレイガール」で大人気だった俳優の西尾三枝子さんとの婚約を発表したのだ。 アントニオ猪木と倍賞美津子以来の、「プロレスラーと人気女優の成婚」が話題にならないわけはないが、実はこの婚約発表は、6日後におこなわれるラッシャー木村とのIWA世界ヘビー級選手権の調印式との同時開催であった(※なお、井上は挑戦者)。さらに、披露宴は井上の地元の大阪と、女優である妻の活動の拠点である東京で、2回にわたり開催された(それぞれ12月11日と17日 )。 結婚の翌々年には新居近くの神奈川県川崎市生田駅前に「ビアガーデン マイティ」をオープン。美声を活かしソロシングルを出したこともあれば、夫妻でのデュエット曲も発売したことがある。NHK「連想ゲーム」に夫婦で出演し(1979年6月)、テレビ東京のボウリング番組「ザ・スターボウリング」では準優勝を果たしている(1984年7月)。1980年代の麻雀雑誌にはプロレスラー代表としてよく登場し、牌を囲んでいた。 そんな井上が2006年、プロレス専門週刊誌のインタビューを受ける時に、こう言ったという。 「週刊誌のインタビュー、初めてだよ」 プロレス専門週刊誌は1980年代前半に創刊されたものが多いのだが、そこから20年以上、何と一誌も井上には話を聞きに来なかったのだという。 「色々聞いてよ! なんぼでも喋るから!」 喋りたくてウズウズしていたのである。筆者もよく話を伺ったが、そのキャリアや団体間の移籍などを含め、まさにマット界の生き字引であり、話が面白くないわけがなかった。 「デビル紫って選手、いたでしょう? 何かの座談会で、『彼女がいない』と言うから、『お前、この誌面使って、“彼女募集中”と、顔写真デカデカと載せて貰って公募せえよ』と言ったら、『だけど、僕はマスクマンです』と。『そうやったな。でも、素顔だと、もっと来なくなるかも知れんしなあ』と(笑)」 「ストロング小林は女嫌いって言われるけど、そんなことはなかったよ。俺は一緒に海外修業も行ってるし。ただ、男性に優しかったのは確かで、バトルロイヤルで最初にみんなで小林に重なって乗っかってフォールを獲ったの。そしたら小林、『う~ん、気持ちいい……』って。ワシら、ずっこけたがな! (爆)」 人柄なのだろう。全ての逸話に楽しいオチをつけていた。後年は宮崎に住んでいたので、電話での会話が多かったが、ひとしきり、筆者が取材を終えると、「何か他に聞きたいことなぁい? (笑)」と誘い水をくれた。前出の西尾さんとは約3年半で離婚されているが、「僕が年下でねえ。まあ、上手くしてやられましたわ。ワッハッハ……」と一笑に付していた。因みに再婚相手はレニングラード生まれの日本人で、これまた大変な美人の宝石デザイナーだった。 やはり生まれ育った国際プロレスには深い愛着があったようで、回顧する段になると、 「(ラッシャー)木村さんもそうだったけど、おとなしい人が多くてねぇ。ワシみたいな大阪人の積極性を見習わんと……」 とよく言っていた。IWA王者でありながら、ベルトを返上し、新日本に移籍して行ったストロング小林を、「未だに許せない部分はある」と言った。「本来は優しくて気弱な男なのに、移籍という考えを持たせた人物に怒りを感じるし、あの小林が動くって、どの程度の金額が動いたんやろう?」と不思議がっていた。 国際プロレスには、最終試合まで出続けた(※本当はその後も、非公表で幾つか試合をしたそうだ)。末期にデビューした冬木弘道に対しても、「無口で、根暗なんじゃないかと思わす奴だった」と評する。 「それがさ、その冬木が正式なデビュー直前、足を骨折したことがあってね。オフには実家に帰っちゃった。彼にはさしたる運動歴もないし、もうダメやろうと思った。そしたら次のシリーズが開幕すると、いたのよ。松葉杖をついてさ。『巡業に同行させて下さい』って。あぁ、コイツ、心底プロレスが好きなんやなと思ってね……」