「マイティ井上さん」が語っていた盟友「アンドレ・ザ・ジャイアント」秘話…「俺とホーガンの試合はストーンズより客を呼んだんだ」
アンドレとの深い仲
そして、井上の交遊と言えばこの選手を忘れるわけに行かない。アンドレ・ザ・ジャイアントである。 「もともと井上がフランス語に堪能で、アンドレが公衆電話のダイヤルに指が入らないのを井上が代わりにかけてやったから」 というのが、2人の交流のきっかけとなった“定説”だったが、事実は少し違うようだ。もともとアンドレが初来日した1970年1月に知り合い、8カ月後、井上がフランスに海外修業に行くと偶然、アンドレと再会。フランス語がカタコトだった井上に、もろもろの便宜をはかってくれたという。 「初来日の時は気弱な感じやった。セコンドついてやると、いつもニコッと笑いかけてくれたんよ。『ああ、こいつは性格良いんだな』と思った。電話? 手伝ってやったのは間違いない」 以降は、井上もフランス語をたしなみ、胸襟を開ける仲に。その技術の高さから、海外で試合にあぶれることのなかった井上だが、より稼げる地域への転戦要請が入り、出向くと、そこには先んじてアンドレが活躍していたという。 「現地のプロモーターに、色々と俺のことを売り込んでくれていたみたいだったね」 アンドレは国際プロレス時代、1971年の「第3回IWAワールド・シリーズ」(リーグ戦)に優勝。翌年の第4回の同大会では準優勝と、一流レスラーの仲間入りを果たす。来日中、井上は酒席はもちろん、札幌巡業で、すすきののその手の店に連れて行ったこともあったという。 「それが何軒も回ったんだけど、全店NG。支配人が出て来てアンドレを見上げてね。『うわ~、無理です』て……。まあ、アイツはモテてたから。恋人の悩み相談にも乗ったよ。『気が強い子で、困ってるんだ』って……」 国際プロレスの吉原社長とグレート草津が、アンドレと井上が試合をしていたモントリオールまで訪ねて来たことがあった。すっかり売れっ子になった2人と海外での再会を祝し、豪華なディナーに高級ホテルとしゃれ込み、翌日、吉原社長がチェックアウトしようとすると、既に会計は済ませてあったという。 「アンドレが払ってたんや。『日本ではヨシワラサンが何でも払って良くしてくれる。だからこっちに来れば、俺が払うのが当然だ』って……」 国際プロレスでスターとなったアンドレは、瞬く間に全米のプロモーターからひっぱりだこの存在になる一方で、1972年に新日本プロレス、全日本プロレスが旗揚げすると、国際プロレスは早くも“第3の団体”扱いに。馬場や猪木のようにエースが固定出来ず、テレビの視聴率も思うように上がらない。吉原社長が断腸の思いでその言葉を口にしたのは、東北地方での巡業を終え、コトコトと揺られて上野駅へと着いた、夜行列車を降りた時だったという。 「アンドレよ」 朝焼けに包まれ、ホームで歩を並べる中、吉原はポツリとフランス語で話しかけた。 「お前をウチのリングに呼べるのも、これが最後かもわからんなあ……」 努めて明るく言ったつもりだった。アンドレはこれからは世界のプロレスの顔となるスター。歩みを止めさせてはならない。 「ヨシワラサン」 アンドレはおもむろに立ち止まり、吉原の肩に手をかけた。 「この世界は所詮、水もの。今は悪くても、また良くなる時がきっと来ますよ」 気弱な初来日時の面影ではない、逞しくなった大巨人の顔がそこにはあった。 「ヨシワラサン、俺も及ばずながら力になるから、頑張ってくれ」 そう言って吉原の肩を抱き締め、二人は共に朝焼けのホームを降りていった。