「反対するものは、叩き斬る」…「特攻を続ける」ことを決めた大西瀧治郎中将が放った「強烈なことば」
直掩機との連携
第二神風特別攻撃隊の第一陣の出撃は、10月27日のことである。 攻撃第五飛行隊・山田恭司大尉率いる忠勇隊の彗星3機、近藤寿男中尉率いる義烈隊の彗星3機、攻撃第一〇二飛行隊・深堀直治大尉率いる純忠隊の九九艦爆3機、五島智勇喜中尉率いる誠忠隊の九九艦爆3機が、それぞれ直掩機に護られて第一ニコルス基地を発進した。 だが、二〇一空零戦隊から出された直掩機との連携がうまくゆかず、義烈隊は1機不時着、2機行方不明。誠忠隊・五島中尉機は、輸送船への体当りを直掩機が確認したが、あとの2機は雲にさえぎられてその最期が確認できていない。 深堀直治大尉率いる純忠隊は、深堀機の風車止引上装置(安全解除装置)の不具合で1、2番機がレガスピーに不時着し、故障を修理して再度レイテ湾に向かったが、日没で敵艦が発見できなかった。深堀大尉は、やむなくセブ基地に着陸するが、上妻英樹上飛曹(偵察員)、横田正幸飛長(操縦員)の2番機はそのまま体当たりを決行したものと認定された。3番機は被弾のため、先にセブ基地に不時着している。 そして翌28日早朝、深堀大尉機はふたたび出撃して還らなかった。その最期を見届けたものは誰もいなかったが、深堀大尉(偵察員)、松本賢飛曹長(操縦員)のペアは敵艦に突入したものと判断された。 しかし、七〇一空整備長・寿圓(じゅえん)正巳大尉の証言によると、深堀大尉機はこの日も突入を果たせず不時着し、深堀は戦死の扱いになったまま、フィリピンから台湾、内地へと移され、のちに九州から沖縄方面の敵艦船への体当り攻撃で戦死したのだという。 忠勇隊は、レイテ湾内の敵艦船に突入、一番機・山田大尉機はタクロバン沖の戦艦に突入、二番機は敵巡洋艦に突入、三番機は敵輸送船の船尾付近に突入し、船尾が切断したのを認めたと、直掩機が報告している。
ついて行くのが精いっぱい
忠勇隊の直掩についたのは、その前日、内地で飛行機を受領し、フィリピンに戻ってきたばかりの戦闘三〇六飛行隊長・菅野直大尉の率いる零戦8機だった。直掩機の1人、笠井智一一飛曹は語る。 「この日は天候が悪くて、零戦8機のうち4機がはぐれてしまいました。予定海面に敵がいないので、大きく旋回してレイテ湾のほうに向かったんですが、レイテ上空も一面の雲で、何も見えない状態でした。そのときの高度は4000メートルでしたか。薄暮攻撃で、あたりはもううす暗くなっていました。 すると、やっと雲の切れ目がみつかって、そこから山田大尉の特攻隊が突っ込んでいった。特攻機は、彗星艦爆に500キロ爆弾をつんでいるからスピードが速く、こっちはもう、編隊を組んでついて行くのが精いっぱい。全速であとを追いました。 それで、一番機が敵艦に突っ込んだと思ったら、目標を外しそうになったのか、グーンと機体を引き起こして二回めに体当りした。あれは戦艦だったか駆逐艦だったか、私にはわかりません。しかし、菅野大尉があとで、『特攻で攻撃をやり直して突っ込んだのはまずおらんだろう。すごい度胸だ』と絶賛してましたね。 1機は船をはずれて海に墜ち、もう1機は輸送船にぶつかったのか、火が出たのは覚えています。1番機の爆弾は、どうも不発だったように思いました。 しかし、そのときの下から撃たれた防禦砲火は、それはすごかったですよ。来る弾丸が全部、自分に向かってくるような気がします。途中までオーバーブーストでついていき、特攻機の突入を見届けたら退避せにゃいかん。必死でしたよ」