「反対するものは、叩き斬る」…「特攻を続ける」ことを決めた大西瀧治郎中将が放った「強烈なことば」
七〇一空は大人の特攻隊
大西中将がクラーク・ストッツェンベルグの七六一空本部からマニラの司令部に戻ったのは10月26日朝9時のことである。 この日の午後、早くも二航艦麾下の七〇一空から、艦上爆撃機による体当り攻撃隊を出撃させることが決まった。七〇一空は、大淵珪三大尉の攻撃第五飛行隊が彗星であるほかは、旧式の九九艦爆を装備していた。フィリピンに進出してきたばかりの二航艦の零戦は、250キロ爆弾を積めるような改修をしないと特攻には使えない、ということで、まずは艦爆隊が選ばれたものと考えられる。 第一航空艦隊で編成された敷島隊、大和隊、朝日隊、山櫻隊、菊水隊、若櫻隊、そして少し遅れて命名された葉櫻隊、初櫻隊、彗星隊の九隊が「第一神風特別攻撃隊」と呼ばれたのに対し、第二航空艦隊で編成された艦爆特攻隊は第二神風特別攻撃隊と呼ばれることになり、それぞれ忠勇隊、義烈隊、純忠隊、誠忠隊、至誠隊と名づけられた。10月29日には新たに、神武隊、神兵隊、天兵隊が加わっている。 第二神風特別攻撃隊は、マニラのニコルス基地から出撃することになった。26日午後、早くも第一陣の艦爆15機がマニラに進出し、司令部前庭の芝生の上で命名式が行われた。艦爆は2人乗りだから、搭乗員は30人である。門司副官は、芝生のあいたところへ机を並べて白い布をかけ、別盃の用意をしていた。 福留中将の訓示、命名が終わると、隊員たちはテーブルに着き、福留中将の音頭で別盃を交わした。 門司の回想。 「七〇一空の搭乗員はみな、大柄でガッチリした人が多いように見えた。士官や准士官、古い搭乗員が二〇一空より多かったからかもしれません。髭の濃い逞しい人が目立ち、小柄で痩せ型の搭乗員が多い二〇一空とは雰囲気が全く異なっていました。私は、二〇一空が少年の特攻隊とすれば、七〇一空は大人の特攻隊、そんなふうに感じました」
手の握り方が違う
大西中将は、幕僚長として、福留中将の訓示の間もずっと黙って侍立していたが、別盃が終わると、テーブルの間をまわって、搭乗員一人一人の目をじっと見て、時間をかけて握手をした。 「こんなことを言ってはいけないんでしょうが…………」と門司は続ける。 「大西中将は、手の握り方ひとつとっても、心がこもっていて、特攻隊員とともに自分も死ぬのだという気魄が伝わってくるようでした。でも、福留中将は豪傑風な笑みを浮かべながらも搭乗員の目をちゃんと見ない。手の握り方もなんとなくおざなりな感じで…………、傍で見て感じたぐらいですから、搭乗員にはもっと敏感に伝わったのではないでしょうか。 司令部の食事に卵が出たとき、福留中将の割った卵に少し血が混ざっていて、福留中将はそれに箸をつけようとしなかった。大西長官は、殻を割らず、従兵に、『航空隊に卵はまわっているのか』と訊いて、部下に食べさせる。内地からかつての部下がリンゴを届けたときも、自分は食べずに部下にまわしてしまう。すごいこと、たいしたことでは全くないんだけども、身近にいる者にはそのちょっとした差が大きく見えてしまうんです」 その夜、艦爆特攻隊員たちは、誰いうともなく、 「どうせ死ぬのだから、もう金はいらない。みんな出そう」 と持ち金を出し合い、丸テーブルに、紙幣や銀貨、銅貨が集められた。 すると、先任搭乗員の上飛曹が、 「みんな渡し銭をとっておいたか。三途の川を渡るには3銭いるんだぞ」 と言い出したので、そうだそうだと、集まったお金のなかからふたたび一銭玉3つずつをもっていったと、七〇一空司令・木田達彦大佐は戦後、回想している。 木田司令は、手帳の紙を1枚破り、この経緯と、特攻隊員のこの気持ちをなんとか全国民に知らせてほしい旨を、簡単に書き記して、前の所属長である軍需省航空兵器総局長官・遠藤三郎陸軍中将殿と締めくくり、献金と一緒にしっかりとハンカチに包んだ。 ハンカチに包まれた金と手紙は、深堀直治大尉から二航艦副官・藤原盛宏主計大尉に手渡され、藤原はさっそく、内地への飛行機便にこれを託した。 後日、これを受けとった軍需省の遠藤中将は、いろいろ考えた末、赤い日の丸をはさんで左右に「神風」と藍で染めた「神風手拭」をつくり、生産工場で働く人たちに配った。工場の人たちはこれを鉢巻として使ったという。