「反対するものは、叩き斬る」…「特攻を続ける」ことを決めた大西瀧治郎中将が放った「強烈なことば」
「涙が出ましたよ、あの時は」
10月24日の航空総攻撃でグラマンF6Fの奇襲を受け、戦力が半減した第二五二海軍航空隊は、25日の敵機動部隊攻撃にも零戦12機が参加している。残存搭乗員は約20名。マバラカットに残留し、高床式の宿舎で休んでいた。先任搭乗員・宮崎勇上飛曹は、私に次のように語っている。。 「25日の夜遅く、みんなもう寝てたんですが、飛行長の新郷英城少佐が私に、 『おい先任、みんなを起こせ』 と言ってきました。雨がしとしとと降る晩でしたよ。急いでみんなを起こして整列させると、新郷少佐は、 『みんな、ご苦労だった。しかし、わが海軍の艦船で無傷のものは、もうなくなった。したがって、飛行機で戦うしかないが、残り少ない戦闘機で敵艦を攻撃するには、急降下爆撃だ。それも、低いところから爆撃するほど命中率は高い。つまりゼロメートルなら、絶対に命中する。要するに体当りだ』と。そして、『希望しないものは一歩前に出ろ!』――これで、出られると思いますか? みんなそのまま突っ立っていると、 『よし、みんな賛成してくれたな。俺もつらいが仕方がない。名簿を明朝までに出してくれ』 ということになりました。 翌朝、ふたたび搭乗員を整列させて、新郷少佐という人は、ふだん戦地では防暑服のだらしない格好をしていて襟の階級章なんかもつけたことのないような人なんですが、このときばかりはパリッとした第三種軍装を着て、軍刀まで下げて現れて、 『本日、二五二空から二〇一空に5名を派遣する』 と。そして名前を読み上げて、みんな帽ふれでその5人を見送りました。涙が出ましたよ、あのときは」 特攻隊の編成にあたっては、大西中将が、決められた以外の航空隊が特攻隊を出すことを許さなかったので、戦闘機搭乗員で特攻隊に組み入れられる者は、いったん二〇一空に転勤、という形をとったのだ。
もう後戻りはできない
日付は明らかでないが、10月末のある日、クラーク基地群の飛行場で、二航艦の制空部隊であった第二二一海軍航空隊でも、福留繁中将じきじきに志願者の募集が行われている。 「諸君は空の神兵である。ただいまより特別攻撃隊員を募集する。われと思わん者は一歩前へ出よ」 その場に整列していた小貫貞雄飛行兵長は、 「福留中将の訓示に、一瞬、その場の空気が凍りついた」 と、私のインタビューに語っている。ぎらぎらと太陽が照りつける滑走路に整列した搭乗員たちはみな、顔は前を向いたまま、目だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた。そして数秒。沈黙に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて総員が、ぞろぞろと重い一歩を踏み出した。 小貫も、雰囲気に引きずられて一歩、前に出た。しまった、と思ったがもう後戻りはできない。 「ありがとう、ありがとう。だが、これでは志願者が多すぎて選びようがない。いずれ選考の上連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」 と言って、福留はハンカチでそっと目頭をおさえる仕草をした。 小貫飛長は大正15年(1926)、宮城県に、鉄道員の次男として生まれた。軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験したが、試験官の勧めで飛行兵志望に切り替える。そして昭和18年6月、村人の盛大な見送りを受けて、乙種飛行予科練習生(特)、通称特乙の二期生として岩国海軍航空隊に入隊した。 「特乙」とは、乙種予科練習生の合格者のなかから生年月日の早いものを選抜して速成教育をほどこすためにつくられたコースで、小貫も、殴られて体で覚えるすさまじい詰め込み教育に耐え、わずか9ヵ月後の昭和19年3月には零戦搭乗員として実戦部隊に配属される。そして10月、二航艦のフィリピン進出とともにクラークに送り込まれていた。当時18歳。すでに幾度かの空戦を経験している。 福留中将の呼びかけに応えた二二一空の搭乗員たちは、次々と特攻部隊、すなわち二〇一空へ転勤を命ぜられていった。 「ニッパ椰子の葉で囲った粗末な三角兵舎のなかで、みんなごろごろと待っていると、夜、暗くなってから要務士がカバンを持ってやってきて、『ただいまより二〇一空転勤者を発表する』とやるんですよ。そして名前を呼ばれる。一度に5人か6人ですけどね、この瞬間の気分はなんとも言えません。名前を呼ばれた者は、飛び上がって喜んでるんだけど、心のなかは逆。泣いてるんですよね。それで呼ばれなかった者はガックリしたような顔をしながら腹のなかではホッとしている。明と暗がはっきり分かれる瞬間でした」 と、小貫(戦後、杉田と改姓)は回想する。