数々の襲撃事件や転機の背景を警察・ヤクザ双方の視点で紐解く…10年目に突入した『山口組分裂抗争』
〈今年の8月27日は、極道の世界にとって大きな意味を持つ一日となった。六代目山口組と神戸山口組の間で繰り広げられている分裂抗争が10年目に突入したのだ。稀に見る長期戦になっている今回の抗争。ここまでの9年間の軌跡を『山口組分裂の真相』などの著書のあるノンフィクション作家・尾島正洋氏が振り返る〉 【最近影】グラサンにロングコートで…組員を従え北海道を訪問した「六代目山口組・司忍組長」現場風景 国内最大の暴力団、六代目山口組が‘15年8月27日に分裂。離脱した神戸山口組との間で起こっている山口組分裂抗争が10年目に突入した。分裂後、双方の間で殺人や事務所への発砲、火炎瓶の投げ込み、車両での突入、繁華街での乱闘など、数々の抗争事件が発生。その数は100件以上、死者は十数人に上る。 警察当局の発表によると、分裂時の双方の構成員数は六代目山口組が約6000人、神戸山口組は約2800人であり、倍以上の差があった。当初は神戸山口組につく組織が相次ぐなど勢いがあったものの、時間の経過とともに六代目山口組が攻勢を強め、‘23年末時点では六代目山口組の構成員は約3500人、神戸山口組は約140人と25倍もの差となっている。現在に至る9年間に、一体何があったのか。改めて、分裂抗争の軌跡を振り返りたい。 ◆分裂発生の背景にあった「厳しすぎる上納金」 神戸山口組は六代目山口組傘下の有力組織だった山健組、宅見組、池田組、侠友会、正木組の中核5組織を中心に計13組織で結成された。神戸山口組の組長には山健組組長の井上邦雄(76・年齢は現在のもの。以下同)が就任。副組長に宅見組組長の入江禎、若頭には侠友会会長の寺岡修が就いた。 山健組は三代目山口組時代の若頭・山本健一が創設した組織で、五代目山口組組長の渡辺芳則を輩出した名門とされ、山口組内だけでなく全国の暴力団組織の間でも”ブランド”とされている。宅見組は五代目山口組時代の若頭・宅見勝が結成。こちらも長年にわたり、有力組織として知られた。捜査幹部は、分裂の原因について次のように指摘する。 「分裂の原因の第一はカネだ。(直系組長である)直参の毎月の上納金は100万円以上。そのほか盆暮れや六代目・司忍組長(82)の誕生日には5000万円や1億円というカネを求められた。六代目体制になって金銭的な負担は大きくなった」 前出の捜査幹部は「六代目体制になってから、統制が厳しくなったことが第二の理由としてあげられる」と付け加えた。六代目山口組組長には、有力組織・弘道会出身の司忍が就任。ナンバー2の若頭に同会の髙山清司(76)を登用した。ツートップを独占して、髙山による強権的な組織運営がなされるようになった。捜査幹部は「比較的自由だった五代目時代からの古参幹部たちにとって、六代目体制になって息苦しくなったのは間違いない」とも述べた。 分裂後、しばらくは平穏に推移していた。しかし、年が明けた‘16年2月以降、双方で事務所への発砲や、偶発的な乱闘などが続発。抗争事件は全国に広がり、一日に数件発生することもあった。 日増しに緊張が高まる中、同年5月、岡山市内でついに決定的な事件が発生する。神戸山口組のキーマンの一人である池田組若頭・高木昇が射殺されたのだ。逮捕されたのは六代目山口組傘下の弘道会系組員だった。この事件は高木の行動パターンを下調べするなど、入念な計画と準備の上で実行されており、これを機に双方の幹部が殺害される事件が続出。抗争は激化の一途を辿った。 こうしたなか、神戸山口組の組織が縮小していく端緒となる出来事があった。神戸山口組山健組幹部だった織田絆誠(よしのり・57)が’17年4月、金銭問題を批判して一部グループを率いて離脱。新たに任侠団体山口組(現・絆會)を結成したのだ。神戸山口組内でも六代目山口組と同様にイレギュラーなカネの徴収が始まり、不満が募ったことで反旗を翻した形だった。 対立抗争が長期化するなか、六代目山口組が優位に立つ決定的な出来事があった。‘19年10月、若頭の髙山清司が刑期を終えて府中刑務所から出所したのだ。髙山の出所に合わせ、六代目山口組傘下組織の組員たちが功を競うように事件を引き起こすようになった。 最も象徴的な事件は‘19年11月に発生した。兵庫県尼崎市の商店街で神戸山口組幹部の古川恵一が自動小銃で十数発の銃弾を浴びて殺害された。夕方の商店街には、連発する発射音が鳴り響いた。逮捕されたのは六代目山口組竹中組の元組員だった。 髙山が出所する直前には、神戸山口組傘下の山健組組員2人が同時に射殺される事件も発生。六代目山口組弘道会系幹部が逮捕された。前出とは別の警察当局幹部は、「情勢が一気に六代目山口組に有利になったのは髙山の出所が大きい。分裂の原因も髙山、情勢が六代目側の優勢に変わったキッカケも髙山。何もかも髙山によって動く」との見方を示す。 対立抗争の経緯を注視していた首都圏に拠点を構える指定暴力団の古参幹部は、「神戸山口組側からの返し(報復)が少ない点について疑問に思っていた」と指摘し次のような感想を述べた。 「神戸に参加した直参は、(六代目山口組の)親分の盃を突き返すようなことをして組織を出て行った。決着がつくまでケンカを続ける覚悟だったはずだ。しかし、神戸側からの返しはほとんどなかった。これでは示しがつかない。ヤクザのケンカは、やられたらやり返す。これはヤクザの業界では常識だし、これがなければ世間にも示しがつかない」 神戸山口組からの報復が少なかった点について、前出の警察当局の捜査幹部は、「(神戸山口組組長の)井上が許さなかったようだ」と内幕を明かす。 ‘18年5月、井上は山健組組長の座を中田浩司に譲っていた。山健組の新体制がスタートして1年足らずの’19年4月、山健組若頭の與則和が六代目山口組弘道会系組員に刺されて重傷を負う事件が発生した。井上が報復を許さないなか、組長である中田は自らヒットマンとして弘道会系組員を銃撃し重傷を負わせた。捜査幹部が解説する。 「中田が井上に襲撃の報告をしたところ、褒められるどころか叱責されたようだ。対立抗争状態だから、中田にとってはやられたら返しをしたいのは当然なのだろう。それもカシラの與が刺されたのだから。ただ、井上は”返しをするな”と厳命していた。その理由は分からない。この点は不可思議なところだ」 こうした対応への不満もあり、神戸山口組は縮小していくことになる。池田組は‘20年7月に、山健組も翌8月に離脱を表明。’22年8月には侠友会が、翌9月には宅見組も離脱した。正木組はすでに解散しており、神戸山口組を支えてきた中核5組織がすべて組織を去った。巨大組織の山健組は‘21年9月、六代目山口組に復帰したことが明らかになった。取り返しのつかない大きな痛手だった。 神戸山口組が四分五裂となり、勢力が縮小していく。しかし、それでも血は流れ続けた。六代目山口組系の幹部が射殺される事件が相次いだのだ。‘22年1月、水戸市の六代目山口組傘下の組織事務所で、訪ねてきた男に幹部が拳銃で射殺された。’23年4月には神戸市内のラーメン店で、店長を兼ねていた六代目山口組弘道会系組長も同様に銃撃されて殺害された。いずれの事件でも実行犯として逮捕されたのは、絆會(旧・任侠団体山口組)若頭・金沢成樹容疑者だった。 それでも組織としての規模は、冒頭に述べたように大きな開きがある。池田組と絆會の構成員は現在、ともに約60人。神戸山口組は約140人で、約3500人の六代目山口組との差は大きい。それだけに、「抗争は終結したも同然」という見方もある。しかし、神戸山口組の井上に降伏の意思はなく、現にいまだに殺害事件も発生している。 異例の長期戦となっている山口組分裂抗争。10年目という節目を迎えた中、何が起きても不思議ではない――。そんな緊張が、両陣営には漂っている。(呼称、一部略)
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