開業80周年の「川崎市電」。廃線跡から、その不遇の歴史をたどる
東京や大阪、京都、横浜などの他の大都市と比べ、川崎の市営交通事業が発足した時期は遅く、戦時中の1944(昭和19)年10月14日に市電が開通したのが始まりだった。2024年10月、川崎の市営交通事業は80周年を迎えた。 川崎市電は1969(昭和44)年3月に廃止され、存続期間が25年と短かったものの、公園の保存車両や「市電通り」という名に、今もなおその記憶が留められ、少なからぬ市民に愛され続けている。 【写真で見る】都心から1時間以内で行ける「日本一の鉄道駅」 以下、『かながわ鉄道廃線紀行』(森川天喜著 2024年10月神奈川新聞社刊)の内容を一部抜粋し、川崎市電の廃線跡をたどってみることにしよう。
◆川崎市電の開業が遅かった理由
川崎市電が開業したのは、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年10月。これは日本初の路面電車である京都市電(開業時は京都電気鉄道)が1895(明治28)年に開業してから半世紀後のことである。 1900(明治33)年の小田原電気鉄道(前身は小田原馬車鉄道)、1904(明治37)年の横浜市電(開業時は横浜電気鉄道)と比べても、かなり遅い開業である。 横浜に次ぐ、神奈川県第2の都市である川崎の市電開業が、なぜこんなにも遅い時期になったのだろうか。実は、川崎市には市電開業のおよそ20年前、市電とほぼ同一エリアを走る路面電車が存在していた。海岸電気軌道(海岸電軌)である。 海岸電軌は京浜電鉄(現・京急電鉄)の子会社として設立され、大正末期の1925(大正14)年に横浜市鶴見区の總持寺停車場(跡地は、現在の本山前桜公園)を起点に、現在の産業道路の経路上を通り、大師線の当時の終点である大師駅(現・川崎大師駅)までを開業させた。主な目的は臨海工業地帯の工員輸送であった。 ところが、折り悪く昭和初期の世界恐慌の影響を受けて業績は上がらず、後発の鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)に買収されてしまう。しかも、鶴見臨港鉄道と海岸電軌の路線は、鶴見-浜川崎間でほぼ並行しており、同一資本で維持する意味が希薄であるとの経営判断から、1937(昭和12)年、産業道路の拡幅整備を機に廃止された。 その後の川崎臨海部の交通は、鶴見川崎臨港バス(現・川崎鶴見臨港バス)が担うことになる。産業道路の建設のために海岸電軌を県が接収した見返りとして、鶴見臨港鉄道に対して同区間のバス免許が与えられ、これにより規模が大きくなった同社のバス部門が独立したのが、鶴見川崎臨港バスである。 しかし、戦争が拡大するにつれ、ガソリンを含む石油製品の消費が統制され、木炭バスなどの代用燃料車(代燃車)が用いられるようになる。さらに戦局が悪化すると、木炭・薪・石炭などの代用燃料さえも手に入りづらくなり、バス運行に支障を来すようになる。 こうした状況下、大師方面の軍需工場では、「通勤する従業員が川崎駅からバスで1時間、大師線利用で大師駅から徒歩で40分を要し、生産増強に大きな支障」(『市営交通40年のあゆみ』川崎市交通局)が生じるようになった。このような通勤難を解決するために建設が検討されたのが、市電だったのである。