アル中男と離婚して、御曹司と電撃的な恋に落ち、イギリス初の女性議員にまで上り詰めた女傑の生涯
「ウィンストン! もしあなたが私の夫だったら、あなたのコーヒーに毒を入れてやるわ!」 「ナンシー! もし私があなたの夫だったら、迷わずそれを飲むね!」―― このすさまじい会話は、さる貴族の豪邸の朝食の席で繰り広げられたものとされている。しかし実際にはこれはよくできた「作り話」とも言われる。会話の主は、のちのイギリスの大宰相ウィンストン・チャーチルと、この館の女主(ホステス)であるナンシー・アスター。 言葉の達人チャーチルに対して、これだけの会話を交わせるような女傑を生み出した「アスター子爵(Viscount Astor)」家とは、いったいどのような貴族だったのだろうか。英国貴族史研究の第一人者である君塚直隆氏の『教養としてのイギリス貴族入門』から抜粋して紹介する。
アメリカの大富豪に生まれて
実はアスター家の開祖はアメリカ人だった。ドイツから合衆国へと移民した一族の先祖が、ジョン・ジェイコブ(1822~1890)の時代に不動産投資と開発で巨万の富を得た。そのひとり息子がウィリアム・ウォルドルフ(1848~1919)。父の事業を手伝い、現在もニューヨーク屈指の最高級ホテルとして君臨する「ウォルドルフ・アストリア」の基盤を築く傍ら、州の上院議員や在イタリア公使なども務めた彼は、1890年に父が亡くなると、なんと1億ドルを超える巨額の遺産を受け継いだ。
「新聞男爵」から子爵へ
ところが彼はそのまま家族を連れてイギリスへと渡ってしまう。彼はアメリカの浅薄な文化をバカにし、ヨーロッパにこそ真の文明があると考えていた。ロンドンで生活した後、1893年にはイングランド南東部バッキンガムシャのマーロウの近郊に「クリヴデン・ハウス(Cliveden House)」という邸宅を購入した。 さらにこの頃、ウィリアムが買収したのが『ペル・メル・ガゼット』という夕刊紙だった。保守党支持者のウィリアムは、元々は自由党を支持する同紙を保守党系の有力紙に替えてしまった。さらに長男ウォルドルフ(1879~1952)からの助言を受けて、ウィリアムは日曜紙『オブザーヴァー』まで買収した。『ガゼット』はやがて売却してしまったウィリアムだが、『オブザーヴァー』は息子と稀代の名編集長ジェームズ・ガーヴィンに任せ、1流紙の仲間入りを果たさせている。 20世紀初頭のイギリスは、新聞や雑誌の所有者(オーナー)が政治に大きな影響力を及ぼす時代になっていた。彼らはやがて叙勲や果ては爵位まで受け、「新聞男爵(Press Baron)」などと揶揄されていく。アスターもご多分に漏れず、1916年に男爵、そして翌17年には子爵に叙せられた。ところがこの叙爵が息子との決裂をもたらすとは想像だにしていなかった。