アル中男と離婚して、御曹司と電撃的な恋に落ち、イギリス初の女性議員にまで上り詰めた女傑の生涯
米国人女性ナンシーと結婚
アメリカの粗野な生活を嫌ったアスター子爵の方針もあり、イギリスへ渡った2人の息子はそろってイートン校からオクスフォード大学に進学し、ジェントルマンとしての教育をほどこされた。父の希望通り、兄弟はスポーツマンとしても、さらには政治家としても大成しつつあった。次男のジョン・ジェイコブ(1886~1971)は、1908年のロンドン・オリンピックのラケッツ(スカッシュに似た競技)のダブルスで金、シングルスで銅メダルを獲得した。 長男のウォルドルフは1905年にアメリカを旅したとき、ある女性と電撃的な恋に落ちる。それが冒頭に登場したナンシー(1879~1964)だった。ウォルドルフと同い年の彼女はヴァージニア州で生まれ、18歳で結婚したものの、アルコールに溺れた夫の家庭内暴力が原因で離婚していた。2人は出会うなり意気投合し、1906年5月にイギリスで結婚した。父アスターは息子の結婚祝いに、クリヴデン・ハウスをそっくり贈った。かわりに彼自身はイングランド南部のケントにヒーヴァー城を購入し、以後はそこで生活を続ける。ウォルドルフ夫妻はやがて4男1女を授かることとなった。
子爵継承と政治生命の終わり
結婚から4年後の1910年の総選挙で、ウォルドルフはイングランド南西部プリマスの選挙区から立候補し、庶民院議員に当選する。政治活動も軌道に乗り始めたその矢先に、彼の出鼻をくじいたのが父の受爵だった。父もすでに70歳に近く体調も思わしくない。もし亡くなればウォルドルフ自身が爵位を継ぐことになる。そうなればウォルドルフは貴族院へ移籍しなければならない。1911年に成立した議会法(第4章で詳述する)により、いまや貴族院は権限も縮小され、野心のある政治家が活躍する舞台は庶民院であった。自分に何の相談もなく爵位を受けた父と子の間では、父が亡くなるまでわだかまりが消えることはなかったとされる。 やがてイギリスは第一次世界大戦(1914~18年)に突入した。1916年から首相として政権を率いたデイヴィッド・ロイド=ジョージの側近中の側近となったのがウォルドルフだった。首相は王権と議会を蔑ろにしたばかりか、閣僚にもろくに意見を訊かず、自身のブレーンというべき閣外の協力者をダウニング街10番地の首相官邸に集め、その中庭で会議を開いて彼らの意見を徴していた。ウォルドルフもそのメンバーであった。1919年にウォルドルフは第2代子爵となった。事前になんとか爵位を継がなくて済む手段を法的に講じていたが、すべて徒労に終わった。これでウォルドルフの政治生命は終わったといわれる。