「プロレス記念日」の7月30日に振り返る、元祖"世界のショーヘイ"・ジャイアント馬場伝説!
馬場の師匠・力道山が出場を切望しながら実現できなかった世界的なプロレスの殿堂でもある。馬場はデビュー2年で日本の絶対的な英雄である師匠・力道山に、アメリカでの実績で上回っていたのだ。 ■年収でも"世界のショーヘイ"に 馬場は渡米2年目の62年3月9日、シカゴ・アンフィシアターで時のNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースに初挑戦。ロジャースは自分の対戦相手、敵役として"東洋の巨人"を大いに気に入り、ロジャースvsババのNWA世界戦は全米各地のメインイベントを飾った。 アメリカンプロレスの黄金時代でもあった60年代に全米屈指のメインイベンターとなった馬場は稼ぎも桁外れだった。ニューヨークで馬場は最高で週給1万ドルを稼いだという。1ドル360円の固定相場で360万円。現在の貨幣価値でいえばその10倍ほどか。それが1週間の稼ぎなのだ。 この時代の馬場の年収は軽く1億円を超えていただろう。力道山やマネジャーのグレート東郷に搾取されていたとしてもすさまじい額だ。その1億円も繰り返すが60年代前半の1億円なのだ。日本プロ野球界で落合博満が初の1億円プレーヤーとなったのは86年。馬場はその20年以上前にすでに、その数倍の額を稼いでいたのだ。 馬場の商品価値は、63年12月に力道山が暴漢に刺され急死すると、日米で"馬場争奪戦"となり、さらに高騰する。マネジャーだったグレート東郷が馬場をアメリカにとどまらせるために提示した額は、契約金16万ドル、年俸は手取り27万ドル。日本円で9720万円。現在の貨幣価値で10億円ほどだろうか。年俸もまた、60年代における"世界のショーヘイ"だったのである。 ■ショーヘイが救ったもの これだけの高額年俸が保証されながら、馬場は日本への帰国を決断した。その理由はひとつではないだろうが、めいの緒方さんは馬場の妻、元子夫人から生前こんな話を聞いている。 「人が人生の岐路に立ったとき、何を基準にして選ぶのか人それぞれあると思うんですけど、叔母(元子夫人)は『馬場さんはお金じゃなく、お世話になった人への感謝や自分を育ててくれた人への感謝のほうを選ぶ人なの。だからすごいギャランティを提示されても日本に帰ってくる道を選んだのよ』と言っていました」 馬場は64年に帰国する前、デトロイトでルー・テーズとNWA世界戦、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでブルーノ・サンマルチノとWWWF(現・WWE)世界戦、ロサンゼルスでフレッド・ブラッシーとWWA世界戦を行なうという、世界三大タイトル連続挑戦の偉業を成し遂げている。これは日本人に限らず、世界中のレスラーで誰も成し遂げたことのない金字塔だった。 そして帰国後、力道山に代わって日本プロレスのエースとなった馬場は、65年にインターナショナルヘビー級王者になると、超一流外国人レスラーたちを相手に王座を守り抜き大活躍。 英雄・力道山の死の直後、世間では「これでプロレスはなくなる」と言われており、もし馬場が東郷の契約を受け入れ帰国しなかったら、そこで日本のプロレスは終わっていたかもしれない。60年代に全米で大活躍した"世界のショーヘイ"は、日本においてもプロレスというジャンルそのものを救ったのである。 取材・文/堀江ガンツ 写真提供/株式会社H.J.T.Production