「プロレス記念日」の7月30日に振り返る、元祖"世界のショーヘイ"・ジャイアント馬場伝説!
結局、馬場は2軍で3年連続最優秀投手になりながらも自由契約となり、60年1月に大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に移籍。新天地で今度こそ1軍で活躍するべく意気込んだが、開幕前の春季キャンプ中に宿舎の風呂場で転倒。体ごとガラス戸に突っ込み、左肘に17針縫う重傷を負ってしまう。 このケガにより左肘の腱が切れ、左手の中指、薬指の関節が伸展できない状態が続いたため、プロ野球選手を断念。馬場正平のプロ野球生活は、1軍登板3試合、0勝1敗、防御率1.29。2軍最優秀投手賞3回という戦績で幕を閉じた。 ■プロ野球からプロレスの世界へ 失意のまま球界を離れた馬場。だが、209㎝の長身を誇りプロ野球選手になれるほどの運動神経を持つ逸材をプロレス界が放っておかなかった。60年3月、馬場はかねてプロレス入りの誘いを受けていた日本のプロレス界の父・力道山を訪ね入門を直訴し、日本プロレス入り。 通常、プロレスラーの収入は試合をしてファイトマネーを稼がなければ得られないが、力道山は練習生となった馬場に巨人軍時代と同額の月給5万円を保証した。当時は大卒初任給が1万6000円の時代、現在の貨幣価値にすれば70万円程度か。新人レスラーとしては超破格の待遇であり、馬場の存在はプロレス入りした時点ですでに規格外だったのだ。 馬場が日本プロレスに入門したとき、同期には力道山にスカウトされ移住先のブラジルから帰国したばかりの猪木寛至(いのき・かんじ)、後のアントニオ猪木がいた。当時、馬場が22歳で猪木は17歳。ここから終生のライバルとなるふたりだったが、新人時代から格の上で大きな差があった。 両者は60年9月30日、台東体育館で同日デビュー。猪木は大木金太郎に敗れたが、馬場はベテランの田中米太郎(よねたろう)に勝利。翌61年からは早くも大物外国人レスラーとも好勝負を展開するようになり、61年7月には力道山の命令によりデビュー10ヵ月で早くも武者修行のためプロレスの本場アメリカへと渡る。ここからショーヘイ・ババ伝説はスタートする。 通常、当時のアメリカにおける日本人(日系人)レスラーというのは、真珠湾攻撃を連想させるゴング前の奇襲攻撃を仕掛ける、卑怯で小柄な小悪党と相場が決まっていた。しかし、2m超えの長身を誇る馬場にそのようなギミックは必要なく、ショーヘイ・ビッグ・ババ、ババ・ザ・ジャイアントなどのリングネームで"東洋の巨人"として各地で興行の目玉となる。 そしてごく短期間でメジャーなテリトリーでメインイベンターに。渡米2ヵ月後の61年9月には、早くもニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンのリングに立ったのである。 マディソン・スクエア・ガーデンといえば、後にフランク・シナトラ、エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、マドンナなど超一流アーティストが公演を行なう世界で最も有名なアリーナ。