ハーブ研究家・ベニシアさんが愛した京都・大原の庭を訪ねて。築100年を超える古民家を自分たちで改装。7つの庭を1つずつ完成させて
◆ガーデニングコンテストで受賞 ベニシアさんは、1950年、イギリス貴族の家に生まれた。上流社会になじめず、19歳でインドへ。その翌年に来日し、日本人男性と結婚、一男二女をもうける。 英会話スクールをオープンし京都に腰を据えるが、夫婦関係はうまくいかず離婚。シングルマザーとして奮闘する日々を過ごしていた。 一方、9歳年下の梶山さんは、ネパールやインドを放浪後、84年、京都で二人の出会いの場となるインドカレー店を開いた。 「ベニシアは店の常連だったけど、親しくなったのは、僕が前妻と別れ、山岳カメラマンの仕事を始めようとしていた91年ごろ。当時からベニシアは、言葉に説得力のある魅力的な人でした」 92年、二人は南アルプス・仙丈ヶ岳山頂で結婚式を挙げる。翌年、悠仁君が誕生するが、「ベニシアの2人の女の子たちは多感な思春期で、僕は歓迎されなかったんです」。 子どもたちが成長し、独立した後も苦難は続いた。「23歳だった次女のジュリーが、出産後の精神的ショックから統合失調症を発症してしまって。どう接していいかわからず悩みましたね」。
一方でベニシアさんは少しずつ注目され始める。きっかけは、2002年に「NHK 私のアイデアガーデニングコンテスト」で特別賞を受賞したことだった。 「番組の生中継を見ていたら、『日本に昔からある植物を大事にしたい。村や町の風土、環境、歴史や文化に合わせた庭を造ることが大切じゃないか』と堂々と話していて。僕の心配をよそに、彼女は庭についての考えを語り、そこにいた誰よりも審査員の心をつかみました」。 その後、初の著書『ベニシアのハーブ便り』がベストセラーになり、エッセイ集やDVDなどが相次いで発売された。あまり知られていないことだが、ベニシアさんの書く英文を翻訳し、自然な日本語に直していたのは梶山さんだった。 しかし、「あちこちで『奥さんは有名人なのに、ダンナはただの人。たまに写真を撮ってるみたいだけど』なんて軽く扱われて(笑)。 面白くないもんだから、ベニシアに『あなたはイギリス貴族だから、みんなに慕われる。日本人だったら、仕事は来ないよ』なんて嫌みを言う始末。ベニシアは、『そんなことない! 私、頑張ってるんだから!』と本気で怒っていました。 うん、僕のひがみですよね。ベニシアは、ハーブ研究家として人一倍努力していたし、人々を引きつける力がありました。だけど、当時の僕は素直になれなかったんだなあ」。 さまざまな葛藤から逃れるように、梶山さんは山登りにのめり込む。「挙句の果てに、好きな人ができて家を飛び出しました。ベニシアは母親が4度離婚し、『いつ捨てられるかわからない』という不安な子ども時代を過ごしてきた人です。その生い立ちを知っているのに僕は裏切った。あのときの苦しみが、後の病気につながったのかもしれない」。
ベニシア・スタンリー・スミス,梶山正
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