元幕内炎鵬の「弓取り式」に送られた声援と、拍手に思う
【ベテラン記者コラム】1分45秒もの熱のこもった独演だった。 大相撲の元幕内力士で、5月の夏場所では東序二段100枚目まで番付を落とした炎鵬(29)が6月初旬、東京・両国国技館で開かれた間垣親方(元幕内石浦)の「石浦引退間垣襲名披露大相撲」で人生初の弓取りをつとめ、兄弟子の新たな門出に花を添えた。 【写真】新パレードカーと記念写真に納まる宮城野親方、芝田山親方とトヨタの豊田章男会長 西十両3枚目だった昨年夏場所で頚部(けいぶ)椎間板ヘルニアを発症して途中休場し、7場所連続休場中。寝たきりの状態からリハビリを始め、現在は本場所復帰へ向けて稽古も再開している。国技館の土俵に立った、そんな炎鵬へ声援と大きな拍手が起こった。 炎鵬と昨年6月に現役を引退した間垣親方はともに、弟子の暴力問題で当面閉鎖された旧宮城野部屋の師匠だった宮城野親方(元横綱白鵬)に導かれて大相撲入り。夏場所中に間垣親方から大役を打診されたが、弓が手元になく練習したのは前日の1日のみ。弓取りの経験がある元力士から教わり、特訓を受けたという。 本場所で弓取式が毎日行われるようになったのは昭和27年初場所から。それ以前は千秋楽に行われる三役相撲の最後に行われた儀式で、本場所の結びの一番の勝者にかわり、全取組終了後に作法を心得た力士が土俵上で披露する。慣例として幕下以下がつとめ、特別に大銀杏(おおいちょう)を結う。基本的に横綱が所属する部屋または一門の力士によって行われる。 さきの夏場所2日目。その日から横綱照ノ富士が休場し、同部屋の弓取りにかわって西幕下20枚目朝乃若が初めて本場所での弓取り式に臨んだ。令和4年春場所で自己最高位の東十両4枚目まで番付を上げた関取経験者で、幕下以下に番付を下げた後に弓取りを行うのは平成3年名古屋場所の秀ノ花(元十両)以来33年ぶりだった。 弓取りの由来は諸説あって、古い順から主に3つある。平安朝時代の節会(せちえ)相撲を描いた「平安朝相撲人絵巻」のなかに「立合いの舞」が描かれ、舞人が弓を持って舞っている絵と深くかかわるというもの。 土俵上での弓取式は江戸時代の享保年間とされ、宝暦13年に刊行された「相撲大全」には「元亀元年2月の織田信長上覧相撲で褒美として勝ち力士に秘蔵の弓を与えたことに始まる」と記され、「故実作法があって、故実の案内をよく知りたる者出て、この弓を請取なり」と、すでに弓取り専門の力士の存在が示されている。