西暦1966年は悪魔元年だった...サミー・デイヴィス・Jrが信仰した「悪魔教」の実態 米
アメリカの歌手であり俳優、エンターテイナーとしても有名なサミュエル・ジョージ・デイヴィス・Jrは、悪魔教の崇拝者だった。彼の人生と悪魔教への関わりについて深く迫る。 【画像】ほぼ裸の女性が横たわる「悪魔教」洗礼式 地獄は明るい雰囲気だった。1972年秋、笑顔とハグがあちこちで交わされる中、サミー・デイヴィス・Jrは意気揚々とパラマウントスタジオに姿を見せた。冥界をテーマにしたNBCの新作コメディ『Poor Devil』を撮影するためだ。 46歳のエンターテイナーはハリウッドのスタジオを見回した。シットコムならではのユーモアで、死者の国は会社のオフィスという設定だった。金ぴかの観音開きのドアの向こうは堕天使ルシファーのオフィス。しゃれた五芒星の下にはどっしりしたデスクが鎮座している。小さな角、上下逆さまの十字架のようなあご髭。そして地獄の釜がぱっくり口を開けた灼熱の洞穴。デイヴィス演じるみじめな下っ端の悪魔は、この焼却室で何世紀も石炭をくべている。 筋書きでは、都合よくサミーと名付けられた哀れな地獄の住人が、自分の存在価値をルシファーにアピールするべく、人間に魂を売らせようと説得する。デイヴィスはヒット曲「キャンディ・マン」を歌う時の節回しで、悪企みを説明するセリフを繰り出す。「ルシファー様も言っておられた、自暴自棄になった時が魂を売るタイミングだと」。 まさしくそうした仕事の焦りが希代のパフォーマーをこんな奇妙な作品に導いたのだが、本人もノリ気だった。「何がなんでも『Poor Devil』をやりたかった」と後にデイヴィスも公言している。後にこの番組はデイヴィスの伝記やポップカルチャーの系譜からはすっぱり削除されることになるが、撮影当初は楽観的なムードが漂っていたようだ。デイヴィスはアコギなルシファー役として、ドラキュラ伯爵を演じたこともある友人のクリストファー・リーを起用。魂を売ろうとする会計士役は『おかしな2人』のジャック・クルッグマンに、魂を売る代わりに懲らしめられる上司役は往年のバットマン、アダム・ウェストにゲスト出演を依頼した。 いざ撮影が始まると、デイヴィスは脚本にはない一般的な悪魔的要素――角を見せる悪魔式の挨拶や、赤い爪などを演技に取り込んだ。脚本を担当していたエグゼクティヴプロデューサーのアール・バレットは、役者がしっかり予習してきたのだと思い、がぜんやる気になった。 デイヴィスはサミー役を自分の分身以外の形で演じる気がなかった、あるいは演じられなかったようだ。スタジオの衣装部ではなく、専属デザイナーを雇って主人公の衣装を作らせた――真っ赤なスーツはサイ・デヴォレが、揃いのシャツはロンドンのナット・ワイズが仕立てた。また自分と分身を混同するのを内輪ネタのジョークにした。バレットはデイヴィスに声をかけ、「失礼、台本ではサミーだった」と訂正を入れた時のことをこう振り返る。 「俺たちが別人だと思い込まなくてもいいんだぜ、アール」とデイヴィスは答え、ルシファーのオフィスに向かって首を振り、ウィンクした。「俺はマジであいつの下で働いてるんだ」。 1973年、ダイアン・ハガーティはTVガイド誌のページをめくった。2月10日の週の番組表に、『Poor Devil』という仮タイトルのパイロット版が載っているのが目に留まった。「サミー・デイヴィス・Jr演じるのはドジな地獄の使徒。1400年間、悪魔に1つも魂を捧げられなかった不器用な死神に、最後のチャンスが与えられる」。 水曜の夜8時30分、ハガーティはTVのスイッチを入れて構えた。番組の中盤で、デイヴィス演じる主人公が魂を狙う会計士は、何とかして悪魔の手先に連絡を取ろうとする。サンフランシスコのアパートで電話に手を伸ばし、こう叫ぶ。「ダウンタウンのサタン教会につないでくれ! あそこなら奴の居場所が分かるはずだ!」。 「椅子から転げ落ちそうになりました」と、ハガーティはこの場面を見た時の反応について語った。もし本当に会計士がそうした電話をかけていたら、ハガーティが電話に出ていただろう。事実、彼女はサタン教会の本部で『Poor Devil』を見ていた――サンフランシスコのリッチモンド地区にあるヴィクトリア様式の屋敷、通称「ブラックハウス」で、彼女は常識とは程遠い内縁の夫と暮らしていた。サタン教会を創設した最高司祭、アントン・サンダー・ラヴェイだ。教会の起源に詳しい情報筋によると、ハガーティはラヴェイと共同で『The Satanic Bible』をはじめとする著書を執筆し、サタン教会を開いた。だが悪魔教の広告塔は「闇の教皇」ことラヴェイだった。1967年のライフ誌で、ラヴェイは自分の名前を歴史に刻むならラスプーチンの隣がいいと語った。ルック誌の表紙を飾った時には頭蓋骨を握りしめ、トレードマークのスキンヘッドから鋭い眼光を向けていた。またTVにも出演して、長マントと角のついた頭巾をかぶって悪魔教始まって以来の婚姻や葬儀を執り行った。とくに我が子に授けた悪魔教の洗礼式は有名で、ハガーティとの間に生まれた当時3歳の娘ジーナちゃんは祭壇の上で裸体の女性の隣りに座っていた。 かれこれ7年ほど、ラヴェイとサタン教会はこうしたセンセーショナルな記事で取り上げられたが、面白半分がいいところだった。そして今、ハガーティは目の前のTV画面で奇跡のような出来事を目の当たりにしていた。人好きのする、陽気で無害な悪魔の使い。しかも全国TVで普通に放映されている。悪魔主義者――まさに私たちと同じじゃないか! 2日後、ハガーティはラヴェイの右腕マイケル・アキノから1通の手紙を受け取った。叙勲暦もある優秀な元グリーンベレーのアキノは、「教会にとって最高の宣伝だ」と言って『Poor Devil』を絶賛した。ハガーティもアキノに劣らぬ熱意で、「番組のメッセージは私たちの信念とさほど離れていないと思う」と返信した。 ラヴェイは番組を見ずとも、PR効果の可能性を察知した。そこでハガーティとアキノと3人で計画を練った。ラヴェイを番組に出演させ、できればブラックハウスで1話撮影してもらうのが当初の考えだった。サタン教会の最高司祭が『Poor Devil』の出演者を迎え、名誉魔術師に任命してはどうかとアキノが提案した。ハガーティはこのアイデアを面白がり、「黒人のユダヤ人が悪魔教の魔術師になるなんて、デイヴィスさんはどう思うかしらね!」。 ハガーティはほどなくその答えを知ることになる。1カ月後に1通の手紙が届いた。 「御教会の名誉会員へのお申し出を、大変ありがたくお受けしたいと思います。先日放送された『Poor Devil』で、お気を悪くされた方がいらっしゃらないと聞き、私もうれしく思います。これから4月8日までラスベガスのサンズホテルで公演があるため、差支えなければ4月10~16日、サン・カルロス・サークル・スター劇場の公演期間中に任命の手はずを整えていただければと思います。あらためて感謝申し上げます。 平和と愛を サミー・デイヴィス・Jr デイヴィスと悪魔教との関りは、後に削除や隠ぺいが試みられたものの、ずいぶん前から影で噂されていた。実際はというと、悪魔教とのつながりは晩年にいたるまで20年にもおよび、サタン教会の指導者ラヴェイとの間に友情が育まれた。 デイヴィスの側近や伝記作家、ラヴェイの友人や信者や家族(ハガーティの他、最後に連れ添ったブランシェ・バートン、孫のスタントン・ラヴェイなど)との膨大な独占インタビューから、これまで報じられていなかった話題が浮びあがる。一目置かれたいという共通の欲求を抱えた2人の見世物師は、想定外の深い絆を結んだ。ありとあらゆる方面から拒絶され、苦汁を味わってきた人気エンターテイナーのデイヴィスは、受け入れられたいという欲求から制約のない悪魔教とラヴェイに導かれていった。そのきっかけとなったのが奇妙なTVのパイロット版だった。 悪魔のいたずらがなかったら、『Poor Devil』はこの世に存在しなかっただろう。1972年、デイヴィスはNBCのお偉方と会って番組のネタを話し合い、コメディのアイデアを思い付いた――冥界のボスに仕える男、というざっくりした案だった。デイヴィス自身の経験が元ネタ、あるいは下敷きになったアイデアだと言えるだろう。デイヴィスは1989年に出版された自叙伝『Why Me?』で、1968年のある晩の出来事をおどろおどろしく語っている。なんとなく流れでハリウッドのサタン教会に誘われ、行ってみると重々しい儀式が行われていた。嬉しいことに、最後はドラック三昧の乱交パーティで幕を閉じた。 漠然としてはいたものの、デイヴィスのアイデアはNBCが検討していた別のTVドラマ案とバッティングした。『奥さまは魔女』で魔界コメディを成功させたベテランTV脚本家、アーン・サルタンとアール・バレットによるコメディで、『Beat the Devil』という仮タイトルがついていた。自分が出した悪魔コメディの案と、バレットとサルタンのアイデアを組み合わせてはどうかという提案に、デイヴィスも魅了された。 脚本家のプレゼンを受けたデイヴィスは、「最高のアイデアだ」と言った。 『Poor Devil』と改名された作品を、デイヴィスは『素晴らしき哉、人生!』の地獄バージョンととらえていた。ドジで憎めない黄泉の国の下僕が一発逆転を狙う――ただし善良な人間を救うのではなく、魂を売るよう説得して。バレットの記憶によると、デイヴィスはこの解釈にこだわっていた。「ファウストだ。悪魔と取引をするという話だ」。俳優と脚本家は議論した。『素晴らしき哉、人生!』のファウスト版。最後はハッピーエンドの道徳劇。バレットは思い切って役者に異を唱えた。「だが悪魔は最後に敗れなきゃ。そうだろ?」 デイヴィスはただ笑い飛ばした。 大半のエンターテイナーと比較しても、デイヴィスははるかに承認欲求に飢えていた。承認欲求の塊だった。1925年12月8日、サミュエル・ジョージ・デイヴィス・Jrはハーレムでこの世に生を受けた。ともに大道芸人だった両親は、彼が赤ん坊の時に離婚した。父親のサミー・シニアは米ノースカロライナ州出身の黒人で、母親のエルヴェラ・サンチェスはキューバ系アメリカ人だった(後年デイヴィスは母親がプエルトリコ出身だとうそぶいた)。家族や友人によると、母親は生まれてきた赤ん坊が「猿の子ども」みたいだと言い放ち、黒い肌の息子に人種差別的な文言を浴びせた。 3歳になったデイヴィスは、父親とベテラン大道芸人のウィル・マスティン(ずっと叔父だと思っていた)の3人で芸を始めた。4歳になるころには、白人が黒人に扮して面白おかしく演じる演芸を模倣して、黒塗りの顔で歌やダンスを披露した。