とにかくなんでも"デカい" 浅田次郎がカルチャー・ショックを受け続けた初めての北海道旅
牧場はデカく、オーナーもデカい
それにしても、一般道を100キロ超えのスピードで走るタクシーは信じ難い。前後の車間が変わらぬところを見ると、あながち伝法(でんぽう)なタクシーというわけではなく、制限速度50キロの道路を100キロで疾走することが北海道のドライバーのマナーであるらしいのだ。 中央分離帯もガードレールもない。ということはタクシーが雨でスリップするか、もしくは対向車のドライバーが居眠りをしたら、私は即座にお陀仏、ということになる。 『勇気凜凜ルリの色』の単行本に「遺作」の黒オビを巻き、講談社がささやかな「浅田次郎ファイナルフェア」を開催するさまなんぞを想像するほどに、私は青ざめた。 ノーザンファームはデカかった。数字で聞かされても全然実感が湧かないのであるが、ともかくここだけで120ヘクタールの広さがあると言う。ここだけで、と言うのは、近隣に点在する社台グループの牧場を合わせれば、700ヘクタールとかいう面積になるのだそうだ。 私にとっての「ヘクタール」という単位は、「ヘクトパスカル」とか「デジベル」とかいうのと同じで、ほとんど「不可思議」なのであった。ちなみに、広さを表す単位で言うのなら、私は只今『蒼穹の昴』の印税を元手に「30坪」ぐらいの土地を探している。とりあえず「ヘクタール」は「坪」よりデカい単位であるということはわかる。 面会に応じて下さった牧場オーナーの吉田勝己氏もデカかった。体もデカく、声もデカく、顔もデカい。当然のことながら、人物のデカさもただものではなかった。話すほどに何だか叱られているような気分になり、体も声も顔も完全なる四畳半サイズの私は、すっかり萎縮してしまった。 牧場探訪の内容については「優駿」8月号に詳しい。
統一感がなく、妙に健康的な繁華街
さて、ノーザンファームを後にした私の、カルチャー・ショックの旅はまだまだ続く。 つむじ風のようなタクシーは再び荒野の直線道路を突っ走り、そのまんま札幌市街へと飛びこんで行くのだから怖ろしい。しかも信号は赤に変わってから数秒の間は走り続けてもかまわぬらしく、青に変わりそうになったら即座にスタートしても良いらしい。もちろんUターンなどもどこであろうとおかまいなしで、正確に守られている交通法規といえば、一方通行ぐらいのものであった。 すべてがデカく、かつダイナミックであった。この分だとホテルの部屋は百畳ぐらいあり、ルームサービスにはホステスまで現れるのではなかろうかとひそかに期待したが、宿は全国共通規格のワシントンホテルであった。 夜も8時だというのに空が青かった。時計がブッこわれたのかと疑ったが、実は緯度のせいでいつまでたっても日が昏(く)れぬのである。 で、シャワーもそこそこに噂のパラダイス、ススキノへと向かった。 またしてもデカい。ほとんど仰天絶句のデカさである。銀座と新宿と渋谷を足したぐらいの広さというにはまあオーバーにしても、まちがいなくそれらひとつひとつの比ではない。 おまけにケバい。競い立つビルにはどう見ても普通のオフィスらしきものが見当たらず、地下からてっぺんまで、窓々はくまなくきらびやかなネオンに彩られている。 そしてよくよく見れば、それらの遊興施設の配置には、てんで統一性というものがない。 ふつう東京の盛り場では、ソープはソープの区域に、バーはバーばかりのビルに、赤ぢょうちんの飲み屋はそれらしい場所に固まっているものだ。しかし札幌ススキノの場合、まったく無作為に、まったく任意に、それらが混在している。たとえば、まことに有り得べからざることではあるが、1軒の雑居ビルにラーメン屋とコンビニとバーとソープランドとゲームセンターと焼き鳥屋が、てんでにネオンを掲げているのである。 もしかしたら札幌には警察も消防署もないんじゃねえか、と私は思った。少くとも道路交通法と消防法がないことは確かだ。 カニを山のように食らい、ウーロン茶を牛飲しつつ涯てもないススキノを徨(さまよ)い歩くうちに、私はもうひとつ、この町の特色に気付いた。 夜も更けた時刻であるというのに、ジジイがいない。禿頭が恥ずかしいくらい、若者ばかりが溢れ返っているのである。すなわち、ケバいわりには猥雑感がなく、妙に健康的な雰囲気なのであった。東京や大阪の盛り場にはありがちの背徳と犯罪の匂いが、ススキノにはまったく感じられなかった。 もしかしたら、ここは警察も消防も必要のない、理想の繁華街なのではなかろうかと私は思った。 週末の土曜と日曜を、札幌競馬場のゴンドラ席で過ごした。何だってデカいのだから、きっと配当もデカかろうという甚(はなは)だ非合理的な根拠により、馬番連勝6万円台という超万馬券を、またしてもヤマのように取った。 北海道はいいところだ。東京の猫の額の土地さがしなどやめて、札幌郊外に庭付きの家でも買うか―。 (初出/週刊現代1996年8月10日号) 浅田次郎 1951年東京生まれ。1995年『地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞を受賞。以降、『鉄道員(ぽっぽや)』で1997年に第117回直木賞、2000年『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞、2006年『お腹(はら)召しませ』で第1回中央公論文芸賞・第10回司馬遼太郎賞、2008年『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞、2010年『終わらざる夏』で第64回毎日出版文化賞、2016年『帰郷』で第43回大佛次郎賞を受賞するなど数々の文学賞に輝く。また旺盛な執筆活動とその功績により、2015年に紫綬褒章を受章、2019年に第67回菊池寛賞を受賞している。他に『きんぴか』『プリズンホテル』『天切り松闇がたり』『蒼穹の昴』のシリーズや『日輪の遺産』『憑神』『赤猫異聞』『一路』『神坐す山の物語』『ブラック オア ホワイト』『わが心のジェニファー』『おもかげ』『長く高い壁 The Great Wall』『大名倒産』『流人道中記』『兵諌』『母の待つ里』など多数の著書がある。