「墓地」と「花街」の奇妙な関係 ”不吉”な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発
花柳界再編の余波
鹿児島には、明治42(1909)年に券番[置屋と待合茶屋や料理屋とのあいだに介在して、前者から後者への芸妓の派遣、花代(玉代とも。時間制の遊興料金)の精算などを取り仕切る事務所]制度を採用した2つの花街が存在した。松原町に集積した料理屋からなる通称「大門口」の「南券」(大正期に約30軒)と、繁華街である天文館付近の料理屋を中心とする「西券」である(同40軒)。鹿児島花街の特色は、置屋ではなく、料理屋側が主導して券番を組織したところにある。つまり、この2つの地区の料理屋が集合して各々券番を立て、独自に芸妓を差配していた。 ところが、二手に分立していた料理屋は、大正10(1921)年5月に双方の券番をひとつに統合して「西南券」をたちあげるとともに、料理屋自らは「西南料理業組合」を組織し、もともと属していた「鹿児島料理業組合」を脱退する。この新券番・新料理業組合の設立には、西・南双方の有力な料理屋に共通する、ある思惑が隠されていた。 新たに「西南券」を組織した料理屋は、いずれも仲居を置くと同時に芸妓の出先ともなる格式の高い店ばかりであった。それに対し、取り残されるかたちとなった鹿児島料理業組合側には芸妓の出入りがないばかりか、あるいはそうであるがゆえに、仲居を置かずに酌婦を雇う曖昧な業態をとり、前者からは格下扱いされていたのである。「西南券」側は、新団体を設立することで、営業上問題の多いその他の業者を切って捨てたといってよい。 「西南券」の料理屋が脱退してからというもの、鹿児島料理業組合に対する「風紀」上の取り締まりはいっそう厳しくなり、世間の風あたりも日ましにつよくなっていった。当の業者たちのあいだでも、「世間態の悪い商売を何時までも続けることの不利」が実感されるようになる。 そこで鹿児島料理業組合の一部業者が寄り集まって出した結論、それが「従来の営業方針を一変して西南券の料亭と全然同一営業に改め」るという制度上の改革をともなう、新しい花街の建設であった。