「墓地」と「花街」の奇妙な関係 ”不吉”な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発
墓地跡の分譲は大人気
大正12年以降は市街地に近接する側から跡地の区画整理が急ピッチですすめられ、同年7月には借地の申し込みも行なわれている。 墓地の跡であることにくわえて歴代の市長の不幸を考えると、分譲しても売れ残るのではないかという当局の懸念をよそに、売れ残るどころかどの区画にも希望者が殺到し、抽選せざるをえないほどの人気であった。大正13年、助役(のちに市長)に就任した勝目清は、「にぎわった南林寺町──墓地跡は商売繁盛する」と題して次のように回想する。 「今の南林寺町の大部分は、南林寺墓地跡である。市勢の発展をめざして整理が始まり、大正四、五年頃から、今の草牟田墓地その他へ移転することになった。私が就任したころはすでにこの移転工事はすんで、整理工事の時代になっていて、しかも道路のできたところは順次貸付けることになっていた。五月九日参事会を開いて、実地調査の上貸地料や一部分の借地人を決定した。墓地跡だから希望者が少いだろうと予想していたら、とんでもない番狂わせで、あまり希望者が多いため選定に困り、抽選にしたほどであった。ある場所など四十数人の申し込みがあって、なかなか盛んなものであった。」(『鹿児島市秘話勝目清回顧録』) 区画整理した借地には着々と家屋の建設もすすみ、『鹿児島新聞』は大正13(1924)年1月1日の新年の展望にあたり、再開発地区の発展ぶりを「南の新市街」と題して大々的に報じた。同年の5月には町名が「南林寺町」と決定し、墓地内の由緒ある墓碑の整備、電話局などの公共施設や市営住宅、さらには劇場をふくむ主要な土地利用の調整も行なわれている。 これによって、部分的には現在にまでつらなる土地の用途が確立されるのであるが、その過程で「新市街」たる南林寺町の土地繁栄策として、とある計画がもちあがった。 その端緒が「南林寺町に料理屋 市へ借地出願」として報じられている(『鹿児島新聞』大正14年6月10日)。見出しからも明らかなように、南林寺町の一角に料理屋街を建設するというのだが、この構想には券番の設置もふくまれていた。墓地の跡地に花街をつくろうというのである。