「墓地」と「花街」の奇妙な関係 ”不吉”な出来事続発も、予想外の賑わいを呼んだ鹿児島の再開発
かつて全国に500ヵ所以上も存在したという「花街」。各地の遊興空間創出の経緯を辿り、「紅灯の巷」に渦巻く人間たちの欲望の正体、そして近代都市形成の秘密を明かすのは、『花街』を著した加藤政洋氏。ここでは墓地跡地の再開発に花街が絡んだ鹿児島の特異な事例を見ていこう。 【写真】墓地跡地が花街に?
墓地は都市発展の阻害要因
武家屋敷や藩主の下屋敷跡地が花街として再開発されたように、旧城下町においては意外性に富む土地利用の転換がなされた。それは、墓地にもあてはまる。 通常、近世都市の墓地は市街地のはずれに設けられたが、明治維新後、人口の増大と市街地の拡大にともない、墓地が市街地に取り込まれるのは必定であった。さらに、衛生観念の変化とあいまって、明治初期から墓地の移転が議論・実施された都市もある。 たとえば大阪の場合、「七大墓」と称される近世来の墓地が市街地の縁辺に立地していたが、明治初年には南北近郊の2ヵ所(阿倍野・長柄)に整理統合された。現在の大阪駅付近に梅田墓地があったこと、またミナミの中心にある盛り場「千日前」も墓地の跡地であることは、よく知られている。 南国の旧城下町鹿児島もまた、墓地の移転問題に取り組んだ都市のひとつであった。図をみると、旧市街地南西のはずれに広大な墓地、通称「南林寺墓地」のあることがわかる。 鹿児島における墓地の移転事業の完遂を評した次のコメントは、近代都市の墓地をめぐる問題を端的に示している。 「墓地移転問題は文化の進歩と共に日本の各都市に在りて既に幾多の紛糾を来たすなど容易ならざる事態を生じた実例もあつたが独り我が鹿児島市の墓地移転問題は着々として無事に進捗したので全国の各都市が事実一驚を喫する位である」(『鹿児島朝日新聞』大正14年12月18日) 明治期を通じて市街地の拡大をみた鹿児島において、南林寺墓地の移転が都市計画の課題として俎上するのは時間の問題であった。 次のような記述もある。 「明治四十五年ごろ、いまの南林寺町は墓地であった。当時有川貞寿市長は、市勢がだんだん上町から天文館付近に移りはじめたので、同墓地が市の中心にあることは市の発展をひどく阻害するというわけで、勇断をもって墓地の移転を決めた。」(木脇栄『かごしま市史こばなし』) 時代が大正に変わるのにあわせて、鹿児島市は南林寺墓地の移転に着手するものの、江戸時代以来、約300年の歴史を誇る墓地だけに、事業は難航をきわめた。 「ところで、この南林寺墓地をいじった市長は任期を無事つとめることなく短命だったという、うわさまでとんだ位当時としては難事業だったらしい。すなわち墓地移転を計画した有川市長が、任期中病気のため急死、つぎの児玉市長は一日在任で病死、伊集院市長は病気がちで、任期終らず病死、上野市長は列車事故死といったように、みんなこれにむすびつけて、いろんなうわさが生まれたが、ただ一人山本市長だけは健在だった。」(同前) 広大なことも原因したのだろう。結果として、「五代の市長、十五年間にわたる事業となってしまった」のである(同前)。 噂話は措くとして、移転先の開発、墓碑の移転、さらには移転後の跡地利用までをもふくめて考えるならば、この歳月はむしろ当然というべきだろうか。墓地の移転事業そのものは大正11(1922)年3月末日をもって完了するが、再開発計画の立案は7ヵ月後で、事業に着手するまでにはさらに1年以上の歳月を要した。