【歴史の謎】なぜ明智光秀は織田信長を裏切ったのか…理由は四国にあり?「本能寺の変」を解く4つの説
徳川家康:一方で我々残されたメンバーは夢でも幻でもなく窮地に立たされるわけです。信長殿の勧めで堺の町を見物していた私。本能寺の変の発生後、伊賀越えを経てなんとか三河へと戻ることができました。 【解説】決死の伊賀越え 家康と信長は約20年間にわたり同盟を結んでいた。同盟相手が暗殺され、危機を察知した家康は、三河に帰還すべく、伊賀を通過した。当時、伊賀は信長の攻撃(天正伊賀の乱)により荒廃しており、危険地帯になっていたという。 豊臣秀吉:私もこの急報に、中国攻めを中断。信長様の仇を討つために、備中・高松から京へ向かって「中国大返し」と呼ばれる大移動を行います。10日間にわたる強行軍を経て京に到着し、光秀との山崎の戦いに挑むわけですね。 著者:スエヒロ 京都出身。エンジニアとして働いたのち、ウェブ編集者に転身。大手ニュースメディアで編集業に携わる傍ら、歴史上の偉人や出来事と「現代あるある」をミックスした歴史パロディ画像を制作し、ネットに投稿している。NHKのSF時代劇『土方のスマホ』『光秀のスマホ』『義経のスマホ』制作協力。Twitter(現X、ID:@numrock)のフォロワー数は13万人を超える。
スエヒロ