内閣改造で支持率は上がる? 過去の事例は 坂東太郎のよく分かる時事用語
《失敗例》
逆に内閣改造で失敗した事例もあります。もともとの支持率が低くて起死回生で改造しても上手くいかなかったというケースが目立ちます。 衆議院がまだ中選挙区制度であった1990年12月、当時の第2次海部俊樹内閣が改造へ踏み切りました。小派閥出身で派閥の領袖(ボス)でもない海部首相は派閥の意向に苦慮するのが宿命でした。発足当初は45%あった支持率も漸減し改造後も2%減の34%と横ばいに止まりました。 最後は党分裂の果てに政権を失ってしまう宮澤喜一内閣が1992年12月に断行した改造も支持率向上につながりませんでした。この内閣には後の首相となる森喜朗通産相や小泉純一郎郵政相らが入閣しましたが、東京佐川急便事件という大嵐のただなかで、10%台に落ち込んでいた数字は持ち直せないままとなっています。 細川護煕・羽田孜の2代に渡る非自民連立政権からの奪回のため、この連立政権から離脱した宿敵の日本社会党と連立するウルトラCで成立した自民・社会・さきがけの連立政権は最大勢力の自民党が社会党の村山富市委員長を首相を担ぐ形で成立しました。 改造は1995年8月。何しろ村山氏自身が「わしはもともと、改造する気はなかった」「自民党の抗争に巻き込まれるのはご免だ」ともらしていた人事で毎日新聞の記者座談会で「国民無視のドタバタ劇」と酷評されるありさまでは国民が応援しようと思うはずもなく支持率は22%と3ポイント減少しました。平沼赳夫運輸相、森喜朗建設相らが新たに入閣しました。 衆院総選挙に小選挙区比例代表並立制が導入されて以降の第2次橋本龍太郎改造内閣(1997年9月)は、ロッキード事件で有罪が確定していた佐藤孝行衆院議員を総務庁長官で入閣させたことに国民が猛反発し、支持率30%台と20ポイントも落ち込んでしまいました。森喜朗政権が2000年12月に行った改造も効果なし。もともと18%しかなかった支持率が3ポイント落ちただけでした。 12年1月に行われた野田佳彦内閣の改造も失敗例で支持率は38%から32%へ下落しました。前年9月発足の野田内閣は大臣の「政治とカネ」問題や失言、不始末が重なり野党多数の参議院で大臣問責決議が可決、成立してしまいました。問責に法的拘束力はないものの国会(参議院)からいわば「出禁」を食らったのに等しくイメージ刷新を狙っての改造でしたが不発に終わったのです。岡田克也氏が副総理や行政刷新担当相、松原仁氏が国家公安委員長で入閣しました。