「自分のコンプレックスや悩みも長所に変換して表現できる」ブレイキンの先駆者・石川勝之が伝えるカルチャーの本質と日々を支える食習慣
明日への一歩を応援する「Do My Best, Go!」。今回は2024年パリ五輪から正式種目に採用されたブレイキン(ブレイクダンス)の先駆者であり、公益財団法人「日本ダンススポーツ連盟(JDSF)」ブレイクダンス本部長を務める石川勝之(B-boy Katsu One)さんが登場。 ブレイキンとの出合いや始めたきっかけ、世界を転戦してスキルを磨いた20代、オーストラリアで生活した30代、帰国後の会社設立とその活動、五輪競技採用での環境の変化、今後の目標、アスリートの食生活など、幅広い視点から自身の人生を語ってくれた。 ■ダンスとの出会い ――石川さんは81年生まれで、神奈川県川崎市で育ったそうですが、幼少期はどんな子供でしたか? 仲間を連れてすぐどっかに行っちゃうようなメチャクチャ活発な子供でしたね(笑)。 東京タワーが見えたから「よし、行こう」と出発したものの、途中で道に迷って家に帰るのが夜中になったり、廃墟のビルにみんなで忍び込んだり、そんなことばかりしてました。 外国への興味がその頃からずっとありました。小学校の時に英語塾に習いにいってましたけど、大して話せないのに、外国人を見つけると「ハイ、ABCDEFG」とアルファベットを言いながら話しかけてみたり、そんなことをしていた記憶はあります。とにかく外国にとても興味がありました。 ――スポーツは? スポーツは大好きで、走ることも得意だった。運動神経万能タイプだったと思います。 少年時代は野球とサッカーをやっていて、野球はピッチャーとして川崎市内の大会で最優秀選手賞をもらったことがあります。サッカーも横浜マリノス(現F・マリノス)やヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)のアカデミーに入っている子と肩を並べるくらいレベルが高かったんですよ(笑)。 中学に入ってからもサッカーを続けたいなと考えていたんですが、中1の時にJリーグが始まって、大ブームが到来しました。三浦カズ(知良=JFL鈴鹿)さんが赤いスーツでバーンと登場した頃ですね。それでサッカー部に生徒が殺到し、100人以上はいたのかな。僕は「そんなんだったらやらない」と反骨精神が湧いてきて、結局、バレーボール部に入りましたね。 ――意外な選択ですね。 野球は考えましたけど、坊主にすることにどうしても抵抗があって(笑)。中学のバレーボール部は全国を目指すようなノリではなくて、部活ではみんなでバレーボールを使ってサッカーのPKをやって遊んだりしていました。笑 でも市の大会でベスト8くらいまでは勝ち上がって、そのときに神奈川県立川崎北高校の先生から「ウチに来いよ」と誘われたんです。 川崎北は地元ではかなり強い高校で、本気で春高バレーや高校総体を目指しているチームでしたけど、同じ県内に法政二高と市立橘高校という全国屈指の強豪校があった。僕自身は中学の時に楽しくやっていた分、高校3年間バレーボール漬けで本気で取り組みましたけど、万年3位でした。セッターとしてはそこそこ評価を受けて川崎市選抜に選ばれました。 ――石川さんとダンスの接点はどこにあったんですか? 中学生の時に見たマイケル・ジャクソンが最初ですね。「俺、マイケル・ジャクソンになりたい」と思って、見よう見まねでバック転したり、ムーンウォークの真似したりしていた感じです。「何やってるの?」と友達に不思議そうに聞かれたときは「ダンスだよ」と(笑)。校庭や体育館の隅でちょこちょこ練習するというのが当時の自分でした。 ――そこから本格的にのめりこんだのは? 大学生の頃です。高校3年の時、バレーボールを引退して、時間ができた時にダンスをしている同級生の友達に少し教えてもらうようになって「こんなに楽しいんだったら大学に行ったらガッツリやりたいな」と思い始めました。 でも将来は教員になることを目指していて日本体育大学に進みました。教員だった父親の教え子だった方が病気で余命宣告を受けた際に「最後に会いたいのは石川先生」と言われた話を母親から聞かされて、「親父すごいな」「教員って人の心を動かす仕事なんだな」と。いつか自分もそんなふうになりたいと強く思っていました。 別の大学からバレーボール推薦の話が来ていましたが、大学ではバレーボールを部活で続けるつもりはなく自由な時間がほしくて断ったんですけど、実際に日体大に通うようになってからサークルでは物足りなさを覚えるようになった。 だけど、日体大のバレーボール部は推薦入学だけしか入部ができず、サークルはワイワイやっているだけだった。ダンス部も創作ダンスだけで、僕がやりたかったストリート系はなかった。「だったら、もう仲間を集めて勝手にやっちゃおう」という感じで、踊り始めたのが始まりでした。