「自分のコンプレックスや悩みも長所に変換して表現できる」ブレイキンの先駆者・石川勝之が伝えるカルチャーの本質と日々を支える食習慣
――そこからダンスに熱中していくことになったんですね。 そうですね。1日7~8時間踊ってましたね。学校行ってるのに授業を受けずに、同級生に代返を頼んだりもしてました(苦笑)。 当時は今みたいにダンススクールがあったり、インストラクターがいるわけじゃないから、ストリートダンスがチラッと映っているだけのビデオテープを洋服屋とかで買ってきて真似したり、海外行ったことのある友達と教え合ったりする感じでした。 ――大学1年の時にはアメリカに渡ったそうですね。 はい。ダンスに熱中するようになってからも「教員になるんだ」という気持ちは持ち続けていました。だったら、やりたいことをやるのは今しかないと思った。大学の長期休みを有効活用して、冬にアメリカに行くことにしたんです。 その時は先輩が出場する大会を見学するためでしたが、最初にロサンゼルス空港に着いた時の衝撃は凄かったですね。現地で見たのは、自分が2007年に優勝することになる「FREESTYLE SESSION」という大会で、インパクトがもの凄かった。ストリートダンスをやっている人はこの大会で優勝するのが目標で、「日本人には絶対にムリ」と言われていたけど、だったらやってやろうと思いましたね。「日本に帰ったら絶対にダンスを徹底的にやってやる」と決意が固まりました。 ――そこからは定期的に海外へ行くようになったんですね。 「俺はやっぱり海外が好きだ」って思いが高まって、ロスの後はオーストラリアへ行きました。理由は単純で、英語圏で治安がよくて、安かったこと。当時は1オーストラリアドルが51円くらいで、今の半分。アルバイトしてお金を貯めて、長期休みのたびに通うようになりました。街行く人に声をかけて、ダンサーが練習するスタジオに押しかけ、加わっていくのが楽しくてたまらなかった。同じB-boy(ブレイクダンサー)のネットワークが生まれていきましたね。 ――ダンスに夢中になっていくなかで教員になる夢は? 大学3年の時に「今の自分では教員になれない」とふと思ったんです。中学時代の担任の先生に言われた「夢を追いかけろ」ということを実現できていない自分には説得力がないと感じたからです。当時の僕は「ダンスで世界一を取りたい」「ダンスで多くの人とつながりたい」「海外へ行きたい」という新たな夢に向かっている真っ最中だった。自分が夢を叶えていないのに教員として生徒に夢を語るのは違うなと。 ――当時、プロダンサーを目指すという目標は理解されづらかったと思います。 そうなんです。まずは親を説得しなければいけなかった。そこで「ダンスの経験を積みたいから、卒業後の1年間、お金を貯めさせてほしい。結果が出なかったらやめるから」とお願いしたんです。親は「分かった」と言ってくれて、家にも置いてくれました。父親は「お前はダンスで行く気なんだろう」とすでに気づいていたみたいです。でも親戚から「就職もしないで一体、何を考えてるんだ」という手紙が来たりするとやっぱり辛かったですね。 そんなときにニュージーランドの国際大会で初優勝して、現地の新聞の一面に載ったんです。それを親や親戚に見せたら「だったら頑張れ」という応援ムードになった。そこからはもう前向きに突き進むことができましたね。 ――その2年後の2007年には、アメリカで行われた「FREESTYLE SESSION」で優勝。2009年に韓国で開かれた「R-16」でも頂点に立ち、石川さんは確固たる地位を築きました。 とはいっても実際は2007年まではアルバイトをしながら、ダンスをしていたんですよ。その優勝後、僕はヒップホップカルチャーの国際的組織である「ユニバーサル・ズールー・ネーション」に入ったんですが、それからも日本でレンタルスタジオの受付でアルバイトしていて、訪れたDJとラッパーの人に「ズールー・ネーションの人なのにこんなところでアルバイトしてるの?」と怪訝な様子で聞かれたことがありました。 それをアメリカのボスに伝えると「ヒップホップの文化やカルチャーを知らない人に素晴らしさを伝えるのが我々の使命だ」と返事が来て、「これはバイトしてる場合じゃない」と改めて自分のいるチームの凄さ、やるべきことを感じました。そこからはブレイキンのレッスンや週末のバトルへの参加、審査員などのダンスに関する活動に専念するようになりましたね。