羽田の航空機衝突事故、日航から「救援要請」を受けた中小企業とは リサイクル業社長が明かす航空機解体の裏話
「機体の残骸撤去のための重機が富山から届くらしい」。衝突した日本航空の旅客機と海上保安庁機の破片が散乱していた羽田空港(東京)の駐機エリアで今年1月、航空機の誘導などを地上で支援するスタッフの間でこんな情報が駆け巡った。日航からの「救援要請」に応じたのは日本で数少ない資格と技術を持つ中小企業だった。リサイクル業の社長が航空機解体を巡るあまり知られていない裏話を打ち明けた。(共同通信=杉原領) 【写真】「命だけは助かった」でも…残された荷物はどうなった? 羽田の航空機炎上事故、避難した乗客が語る「その後」
▽焦げ臭い現場、救援要請を受けたのは… 事故は今年1月2日午後5時47分ごろに発生し、海保機の乗員6人のうち5人が死亡し、残る機長も自力で脱出したものの重傷を負った。海保機は石川県・能登半島地震の被災者支援のために水や食料などの物資を積んで新潟航空基地へ向かおうとしていた。 焦げ臭いにおいが漂う中で、事故が起きたC滑走路が使えなくなった空港は混雑し、混乱が続いていた。そんな合間に流れた「重機が富山から届く」との報告に、駐機エリアのスタッフは戸惑った。 スタッフからは「重機は既に成田空港から持って来ているはず」「1日4便しかない小さな富山空港から何を持ってくるんだ」などといぶかしむ声も上がったという。 年始の休みを返上してC滑走路の早期再開に動いたのは富山県でリサイクル業を手がける豊富産業グループだった。 日航が事故翌日の1月3日朝に事故機の解体への救援を要請し、豊富産業グループの高倉康氏社長(70)は千葉県に住む東京支店長に連絡を取ってトラックや重機を手配した。 ベテランの重機オペレーターら十数人の社員を富山県から派遣し、羽田空港に到着したのは1月4日朝のことだった。
▽「全く心配はなかった」 すぐに解体手順の打ち合わせを始めた社員らに対し、既に現場に入っていた警視庁や事故調査委員会の関係者は「これだけの人数で解体できるんですか」と疑問の声を上げた。 だが、自信を持っていた高倉社長は「(航空機の)どこをどう切ればいいのか経験値があったから全く心配はなかった。むしろ人手は多ければいいというものでもない」と振り返る。 1月5日に具体的な作業に入った。ただ、事故の調査も同時に進む中でフライトレコーダー(飛行記録装置)の捜索が難航し、切断や分別作業の中断も頻繁に起きた。 混雑が見込まれる3連休の最終日の1月8日に、滑走路の再開にこぎ着けた。 「機体はアルミ合金よりも柔らかい炭素繊維が多用されていて切り込みやすく、作業としては難しくなかった」と話す。 国土交通省から3月28日に、日航から7月12日にそれぞれ感謝状を贈られた。 ▽「飛行機の墓場」にもったいない〝塊〟