【コラム】“絶滅収容所”のチェリスト 50年間の沈黙~ホロコースト生存者が今、ガザの惨劇に思うこと~【ロンドン子連れ支局長つれづれ日記】
アニタさんは、ブレスラウ(当時ドイツ・現在はポーランドのヴロツワフ)に住む中流ユダヤ人家庭の3人娘の末っ子だった。1942年、アニタさんが16歳の時、弁護士の父とバイオリニストの母は強制送還され、そのまま行方知れずに。その後、アニタさんと姉のレナーテさんは児童養護施設に入れられ、製紙工場で強制労働に従事。そこでフランス人捕虜の逃亡を助けるために書類を偽造した罪で、ゲシュタポに逮捕される。獄中生活の後に送られたのが“絶滅収容所”だった。 18歳でアウシュビッツから3キロのビルケナウに送られたアニタさん。その時の気持ちをこう語った。「感情なんてない。ただ『自分はもう死ぬんだ』と諦めたの」
1944年にロシア軍が進攻すると、アニタさんはベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送された。翌年4月15日、イギリス軍によって、病気と飢餓に苦しむ5万人の人々と共に解放される。家も家族も失っていたアニタさんと姉は、2人きりでロンドンに行くことを選ぶ。アニタさんはイギリス室内管弦楽団の創設メンバーとなり、チェロを弾き続けた。
■“50年間”沈黙の後…『真実を受け継ぐ』決意
戦後50年近くもの間、アニタさんはホロコーストについて口を閉ざし続け、自分の子どもたちにさえ話すことを拒んできたという。その理由を聞くとアニタさんは「辛い記憶。すべてが苦しかった。だって、自分もガス室送りになることがわかっていたんだもの」とつぶやいた。
だが1994年、コンサートで弾くためにドイツを訪れ、戦争の記憶と向き合う。1996年に『Inherit the Truth(真実を受け継ぐ)』というタイトルで手記を出版。アウシュビッツなど各地に出かけ、自らの体験を語り伝えるようになった。
■記憶をたどって…収容所は今
アニタさんの記憶をたどり、収容所を訪れた。当日、ビルケナウの門は深い霧の向こうに沈んでいた。 アニタさんが収容されていたビルケナウは、1941年にアウシュビッツから3キロ離れた村に造られた最大の強制収容所にして、最大のユダヤ人絶滅施設だ。4つの大きなガス室と焼却炉を備え、1942年から1944年までの間に、子どもや女性を含む100万人近いユダヤ人が殺された。