1877年6月、日本にやってきたアメリカ人が「日本の赤ん坊」を見て驚いたワケ
赤ん坊をとにかく大切にする
日本とは、どんな国なのか。社会が混乱するなか、こうした問題について考える機会が増えた人も多いかもしれません。 【写真】エドワード・モースはこんな顔でした…! 日本という国のあり方を、歴史的に考えるうえで重要な視点を授けてくれるのが、『日本その日その日』(講談社学術文庫)という書籍です。 著者は、エドワード・S・モース。1838年にアメリカのメイン州に生まれた動物学者です。 1877年6月、39歳のモースは、日本近海に生息する「腕足類」の標本を採集するため、日本にやってきました。日本には2年間滞在するのですが、そのあいだに大森貝塚を発見したことでよく知られています。 本書は、モースが日本で見聞きしたことをつぶさにつづった一冊です。当時の日本のありようが、一人の研究者の目をとおして、あざやかに浮かび上がってきます。 たとえば、日本に到着した直後、横浜で人々の暮らしを見て回ったモースは、当時の日本人の「女性と男性の関係」、そして「赤ん坊にたいする態度」に驚いています。『日本その日その日』より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 *** この国の人々がどこ迄もあけっぱなしなのに、見る者は彼等の特異性をまざまざと印象づけられる。例えば往来のまん中を誰はばからず子供に乳房をふくませて歩く婦人をちょいちょい見受ける。 また、続けさまにお辞儀をする処を見ると非常に丁寧であるらしいが、婦人に対する礼譲に至っては、我々はいまだ一度も見ていない。 一例として、若い婦人が井戸の水を汲むのを見た。多くの町村では、道路に沿うて井戸がある。この婦人は、荷物を道路に置いて水を飲みに来た三人の男によって邪魔をされたが、彼女は彼等が飲み終る迄、辛抱強く横に立っていた。我々は勿論彼等がこの婦人のためにバケツに一杯水を汲んでやることと思ったが、どうしてどうして、それどころか礼の一言さえも云わなかった。 いたる所に広々とした稲の田がある。これは田を作ることのみならず、毎年稲を植える時、どれ程多くの労力が費されるかを物語っている。田は細い堤によって、不規則な形の地区に分たれ、この堤は同時に各地区への通路になる。 地区のあるものには地面を耕す人があり、他では桶から液体の肥料をまいており、更に他の場所では移植が行われつつある。草の芽のように小さい稲の草は、一々人の手によって植えられねばならぬので、これは如何にも信じ難い仕事みたいであるが、しかも一家族をあげてことごとく、老婆も子供も一緒になってやるのである。 小さい子供達は赤ン坊を背中に負って見物人として田の畔にいるらしく見える。この、子供を背負うということは、至る処で見られる。婦人が五人いれば四人まで、子供が六人いれば五人までが、必ず赤ン坊を背負っていることは誠に著しく目につく。 時としては、背負う者が両手をうしろに廻して赤ン坊を支え、又ある時には赤ン坊が両足を前につき出して馬に乗るような恰好をしている。赤ン坊が泣き叫ぶのを聞くことは滅多になく、又私は今までのところ、お母さんが赤ン坊に対して癇癪を起しているのを一度も見ていない。 私は世界中に日本ほど赤ン坊のために尽くす国はなく、また日本の赤ン坊ほどよい赤ン坊は世界中にないと確信する。 かつて一人のお母さんが鋭い剃刀で赤ン坊の頭を剃っていたのを見たことがある。赤ン坊は泣き叫んでいたが、それにも拘らず、まったく静かに立っていた。私はこの行為を我が国のある種の長屋区域で見られるところのものと、何度も何度も繰りかえして対照した。 *** 「赤ン坊」は、ほんとうに他国とくらべておとなしかったのか、そうだとしたら、なぜおとなしかったのか。日本について考えるきっかけをくれる一冊です。 【つづき】「明治の日本にやってきたアメリカ人が感心した…「東京という都市のスゴさ」をご存知ですか」の記事では、引き続き当時の日本についてのモースの観察を紹介します。
学術文庫&選書メチエ編集部