「幸福である」とはいったいどういうことなのか? 偉大な哲学者がおしえてくれる「重要な一つの見方」
快楽を得られる機械があるとして…
人間にとって幸せとはなにか。 どうすればほんとうに充実した人生を送れるのか。 いまこの瞬間に死ぬかもしれないのに楽しくもない仕事をしているのはなぜか……。 【写真】「日本のどこがダメなのか?」に対する中国ネット民の驚きの回答 ふだんは目の前の生活や仕事に没頭している人でも、ときおりこうした「大きな問い」にぶつかることがあるかもしれません。 このような「大きな問い」について、過去に実在した哲学者たちと一緒に考えることができるのが、『哲学者と象牙の塔』という本です。 本書は、デカルトやソクラテス、荘子など古今東西の著名な哲学者の考え方を知ることができるだけでなく、主人公が彼らとともに悩む様子を見ることで、そうした考え方を自分の人生に活かすにはどうすればいいのかを学ぶことができるのです。 たとえば、デカルトと主人公(=本書では「訪問者」とされます)は、「快楽こそが幸福なのか」という問いについて考えていきます。そのときに参照されるのが、アメリカの哲学者、ロバート・ノージックが考え出した「経験機械」という概念。その機械に入った人は、バーチャルな世界で適切にコントロールされた快楽が得られ、十分な健康管理もしてもらえる。夢のような機械です。 しかし、主人公は、そこに入ることを思わず躊躇してしまうのです。『哲学者と象牙の塔』から引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 *** デカルト:あなたは素晴らしい夢から覚めたとき、心底がっかりしたことはありませんか? 夢でなかったらどんなによかったのにと。ここに入れば、夢と現実が完全に逆転するのです。 訪問者:なんとなく、この機械に入ってしまったら、私が私ではなくなってしまうような気がするのですが。 デカルト:あなたがあなたではなくなる? 訪問者:はい。なんとなく。 デカルト:ひとつ聞いてもよろしいでしょうか? 訪問者:もちろんです。 デカルト:あなたにとって「自分」とは何を指しますか? あなたとは、あなたのその手足のことでしょうか? あなたとは、あなたのその髪のこと? それともあなたのその瞳のことでしょうか? 訪問者:え~とですね。それらがすべて集まったものが私(自分)です。 デカルト:それなら、例えば事故で足を失うことになれば、あなたは、あなたではなくなるのですか? 髪を切れば、視力を失えば、あなたは、あなたではなくなりますか? 訪問者:いいえ、そうなっても私は私です。 デカルト:では「それらがすべて集まったもの」があなたではありませんね。 訪問者:う~ん。確かに。 デカルト:なら、何をもって「あなた」ですか? 訪問者:何をもって「私」なんだろう。ちょっと考えさせてください。 デカルト:どうぞ。 訪問者:え~と。紙がなくなっても私、手足がなくなっても私。目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても私。つまり身体を失っても私は私なわけか。だとすると、「コレがなくなったら自分じゃなくなる」というコレは何なんだ……? ふむふむ……。なるほど。もし、何かを考えている自分の意識がなくなったら、私は存在できない。そうか。つまり「私」とは「私の意識」のことです! デカルト:「私とは、私の身体のことではなく、私の意識のこと」。それはわたくし、デカルトの考えと全く同じです。ならばこのタンクに入るのを躊躇することはないこの機械の中では、「あなたの意識」がめくるめく快楽を経験するわけですから。中に入ったところで、あなたがあなたでなくなることなどありません。 訪問者:それはそうなのかもしれませんが……。 *** 自分を意識だと考えると、たしかに論理的には「経験機械」に入ってしまってもかまわないような気がします。しかし、私たちの多くはこの「訪問者」と同じように、経験機械に入ることに躊躇を感じるのではないかでしょうか。……とすると、幸福とはなんなのか。 大きな問題を考え始めるための一歩を後押ししてくれる一節です。 さらに【つづき】「「やりたいことがない」…そんな悩みに、偉大な哲学者・スピノザならなんと答えるか? その「意外な回答」」の記事では、スピノザの思想について紹介しています。
田中 正人