リベロで春高制覇に貢献、セッターで挑んだ連覇は無念の"不戦敗" 荒木琢真が振り返る当時「試合ができるうれしさしか……」
高校2年時はリベロ、3年ではセッターとして
あれから4年近くが経ったとはいえ、ポジティブに思い出したい記憶ではないはずだ。だが、荒木に当時の話を向けると「僕は全然、いくらでも聞いて下さい」と笑顔で答えた。その語り口には、つらかった、苦しかったというだけでなく、たとえ最後が消化不良な終わり方であっても、やることはやってきた。そんな自信と満足感にあふれていた。 「(1学年上の中島)健斗さんや(髙橋)藍さんといった常に『うまくなりたい、強くなりたい』という存在がいて、日本一になった。僕は将来もリベロとしてやっていきたいと思っていたんですけど、チーム事情もあって3年の時はセッターをやってくれ、と。正直に言うと春高で勝ったのに、その後コロナ禍で試合がなくなって、『何を目指せばいいんや』って燃え尽きていたところもあったので、(セッターとして)やるしかない、という気持ちでもありました」 東山の武器は精度の高いコンビバレーだ。能力の高い選手がそろっているとはいえ、それは一朝一夕で完成するものではなく、満足のいくレベルに達するには日々の練習と試合経験が不可欠。しかし、コロナ禍で部活どころか学校生活もままならなかった。 「練習できひんのが一番ショックやったし、練習できるようになっても、すぐにはうまくいかない。ほんまにやめようかな、試合がないんやったら練習しても意味ない。1年間の努力が水の泡になるんやないか、と折れかけたこともありました」 だから、高校最後の春高が開催されると決まった時は、心の底からうれしかった。健康チェックシートの記入や毎日の体温測定があり、大会は無観客。部員全員が応援に行けないという制限された環境下ではあったが、前年日本一になって最高の喜びを味わったコートで、今度はセッターとしてトスを上げてチームを勝たせることができる。苦しかったことが吹き飛ぶぐらい、喜びに満ちていた。 「みんな練習から気合が入っていたし、僕も2年でベストリベロを取れたから、3年では今度はセッターとして日本一になれるように頑張ろう、って。試合ができるうれしさしかありませんでした」 だが、選手の1人が発熱した影響で3回戦は不戦敗。残酷な現実を突きつけられ、最初は理解することすら難しかった。でも、今振り返ると、春高は苦しさよりも楽しさしか浮かんでこない、と笑みを浮かべる。 「ずっと練習してきた成果を春高で出すことができた。リベロとしてだけでなく、セッターとしてもトスが上げられて、本当に幸せでした」