実家の「ゴミ屋敷化」はすでに始まっている…年末年始に帰省しても"老いた親の異変"に気づけない本当の理由
■「ハレの日」にしか会わず、生活実態が分からない PKさんの叔母夫婦の場合、叔父が倒れて以来、親の様子を確認するための電話が2日に一度はあり、また、親の自宅改修のための費用も、文句も言わず出してくれるような息子たちだから、親に関わる気がない薄情な子どもたちではないと、PKさんは言う。 にもかかわらず、息子夫婦は「草ボウボウ」の庭に、何の反応もしていない。目標を定め、指向し、焦点を定めなければ、物事は見えてこない。老い衰えた親の暮らしを支えねばならないとの意識が子の側に弱ければ、親の暮らしを観察するセンサーも働かず、見ても見えざるという関係がつくられる。 そうした、子の側の親の暮らしに対する指向性がないのが、かつての時代と異なる「子ども中心」「教育中心」で育てられてきた、長寿期の親と子世代との関係ではないのか。 子ども、とりわけ長男が「家」の「跡取り」として親の老後の面倒をみることを期待されたかつての時代と異なり、「私たちの老後のことなんか心配しないでいい」「自分がやりたいことをしなさい」と送り出されたのが、いまの中高年子世代だからである。 また、女性の意識も変わり、「嫁」として夫の親に対するケア義務を持たねばならないと考える人たちも少なくなっている。 さらに、子どもたちに親を思う気持ちがあっても、離れて暮らす場合の交流の機会は「年に2回ほど」。それも盆や正月の「ハレの日」、さらに家族旅行や、イベントの日の会食のつき合い。お互いに元気で頑張っている明るい姿を喜び合う場で、個々人の悩みや困りごとを語ることは、「場違い」のこととして控えられる。 ---------- 春日 キスヨ(かすが・きすよ) 社会学者 1943年熊本県生まれ。九州大学教育学部卒業、同大学大学院教育学研究科博士課程中途退学。京都精華大学教授、安田女子大学教授などを経て、2012年まで松山大学人文学部社会学科教授。専門は社会学(家族社会学、福祉社会学)。父子家庭、不登校、ひきこもり、障害者・高齢者介護の問題などについて、一貫して現場の支援者たちと協働するかたちで研究を続けてきた。著書に『百まで生きる覚悟 超長寿時代の「身じまい」の作法』(光文社新書)、『介護とジェンダー 男が看とる 女が看とる』(家族社、1998年度山川菊栄賞受賞)、『介護問題の社会学』『家族の条件 豊かさのなかの孤独』(以上、岩波書店)、『父子家庭を生きる 男と親の間』(勁草書房)、『介護にんげん模様 少子高齢社会の「家族」を生きる』(朝日新聞社)、『変わる家族と介護』(講談社現代新書)、『長寿期リスク 「元気高齢者」の未来』(光文社新書)など多数。 ----------
社会学者 春日 キスヨ