霧の中の三者。椹木野衣評 池田一憲、本田健二人展「霧のふるさと」
霧の中の三者 本展は「二人展」とされているが実質、隠れた三人目が存在する。三人目は展覧会には不在の殿敷侃(とのしきただし)で、出品作家の池田と殿敷を結ぶのは「広島」と「国鉄」である。実際、二人はかつて殿敷のアトリエがあった⻑門で「二人展」を開いており、そのときのタイトルがほかでもない今回と同じ「霧のふるさと」であった。では本田はといえば、その殿敷を通じて池田と知り合った。今回の展示を「二人展」とし、「霧のふるさと」と名付けたのも本田である。すると、もしや本展では本田の存在が「三人目」なのかもしれない。いずれにせよ、本展が場所を変えた二度目の「霧のふるさと」であることに変わりはない。付け加えておけば殿敷は、もうこの世の人ではない。 先に二つのキーワードを挙げたように、池田と殿敷の出会いは、当時二人が職を得ていた国鉄(広島)でのことだった。殿敷が画壇で名を知られるようになった連作に母の遺品を克明に描写したものがあるが、そのようなものを描くことを殿敷に進言したのも池田であったらしい。幼い殿敷は原爆の投下で被爆死した父を探して母子で入市被爆しており、母と子の命を最終的に奪ったのももとを正せば原爆に由来する。 いっぽうの池田は、広島への原爆の投下を、山を越えた島根県の浜田市(旭町坂本)で間接的に目撃している。間接的といっても広島と浜田の山間とのあいだには相当の距離がある。ところが夏のよく晴れたある朝のこと、突然広島方面の空がセピアと朱色の雲で覆われ、そのあとから新聞紙や紙幣の焼け焦げた破片が牡丹雪のように降ってきたのだという。風に流されて運ばれ、空から舞い降りたこれらヒロシマの破片を、まだ幼かった池田は家の前を流れる川のたもとで拾った。そして、そのことが池田(1942年生)がこの世に生を受けて最初に刻まれた記憶となった。 その後、国鉄に就職するも、孤独とふるさとを思う気持ちから独学で絵を描き始めた池田が同じ職場で出会ったのが、やはり同じ歳で広島生まれの殿敷だった。ちなみに池田の絵を最初に認めたのは哲学者の梅原猛で、梅原は池田を1966年、島根県を訪ねた際に、池田のふるさとである旭町の役場にかかっていた絵を通じて知る。衝撃を受けた梅原は池田宛に手紙を書き、画壇に紹介し、これを機に池田の名が知られるようになった。以後、池田は梅原から多大な影響を受けることになる。また美術評論家では末永照和が池田の絵をブリューゲルやウィーン幻想派と比して評価した。ただ、今回の二人展で見られる池田の絵は、こうした系譜とは異次元のものに見える。 そのような異なる見え方を準備したのが今回、殿敷に代わって池田と組んだ本田(1958年生)で、本展は二人展といっても、主な展示室では池田の絵だけが飾られ、本田の絵は隣の小部屋の小品に限られている。その意味では池田をいま一度かつてとは異なるかたちで世に紹介したい本田の一念が本展を実現したと言っても過言ではないだろう。実際、これまで池田の絵は従来の絵の見せ方であった額装やガラス越しに見られてきた。今回、これらを取り払うことで池田の絵の表面の物質的な仕上げがいかに独自のものであるかが明らかとなった。それは⻄欧の素朴派や幻想派ともまったく異なる質感を持っており、ほかの何とも比較することができない。 殿敷に先んじて国鉄を辞めた池田はその後、島根に戻り、山間部の匹見で農業を営みながら絵に専念するようになる。といっても画壇からの距離は遠く、また池田自身が絵を描くことにそのような世界とは異なる価値を見ていたこともあり、発表の機会は限られ、また実際に寡作でもある。わたし自身、池田の名も実作も今回初めて目にして強い衝撃を受けたが、額装されたままではわからなかったに違いない。池田の絵は油彩画ではあるが典型ではなく、その絵具の操り方はどこか物質感を欠いており、しかしそのぶん目に張り付くようにしっとりとしている。額装はこれらを遮断してしまう。さらに色彩は至るところで淡いグラデーションを帯びていて、それは池田がかつて間接的に体験した、真っ⻘な⻘空に広がるヒロシマのキノコ雲特有のセピアや朱色を思わせる。実際、池田の絵はつねにどこかで被爆の様相を帯びており、もっとも古層の記憶に眠る原体験が繰り返し執拗に呼び覚まされている。 池田にとってもっとも強い、絵を描くことの源泉とは、このような決して消せない記憶にある。この記憶を画布と絵具で生々しく再現することで人類の抱える業を目に見えるかたちとし、梅原から受け継いだ法然や親鸞の教えを通じて救済の余地を探る作業は、絵を描くというよりも絵の力を借りた辻説法のようなところがある。その意味で池田にとって絵を描くことは日々の営みとともにあり、特別なアトリエもなく、テレビのワイドショーがつけはなしにされ、蛍光灯が灯り、子供たちが遊ぶなかで描かれている。辻説法がどこでもできるように、池田にとっては絵もまた「どこでも描ける」ものでなければならないのだ。 だが、どこでも描けるということほど大きな試練もまたない。この試練に身をさらしているのが今回、池田と組んだ本田の絵と言えるだろう。画家たちが特別のアトリエを必要とするのは、そのほうが絵を描きやすいからだ。反対にどこでもいいから描こうとすると、大きな反発に晒されることになる。とくに大きな反発を受けるのは、自然の真っ只中で描くことだ。自然界はつねに天候の変化や気温、湿度の上昇下降、季節の移ろいといったエントロピー増大の渦中にあり、ひと時として同じ条件は存在しない。このような「渦中」で描くことの意味(=どこでも描けることの逆説)を、本田は屋外で絵を描いた印象派のなかに見出す。かつて殿敷がアトリエを構えた⻑門に生まれ、殿敷から学び、殿敷を通じて池田の存在を知り知遇を得た本田は、その後1987年に岩手県の遠野に移り住み、自然の只中を歩き回り、描く対象を見つけ、それらを⻑い時間を費やして克明に描写する。このように一言で表現するのは簡単だが、実際に描くとなると別の話だ。画家は雨風を凌いで自然と闘う、ほとんどアスリートの体をなすようになり、厳しい冬に入るとおのずと絵は描けなくなる(実際、印象派に冬の絵はほとんどないと本田は語る)。冬季は春を待つ素描の時間に当てているのもそのためだが、それはそれで独自の時間であり、単に油画と手法やメディウムが違うのとは異なる絵を産み落とす。 では、三人にとっての「霧のふるさと」とはどこなのだろう。これもまた逆説となるが、霧のふるさともまた、どこにでもある「ふるさと」だと言えるのではないか。その意味で「霧のふるさと」は生まれた場所とは必ずしも縁がない。池田がヒロシマを広島から遠く離れて体験したように、殿敷のふるさとである広島が一瞬にしてヒロシマに転じてしまったように、そしてまた本田にとってのふるさとがいまや東北の「遠野」のなかに見出されつつあるように、各人にとってのふるさとは過去ではなく、たったいまから見出されるものにほかならない。だからこそ「霧」なのであって、誰にとっても「ふるさと」を見つめる視界が良好であることなどありえない。しかしふるさとが霧に包まれ実体を欠くことで、「霧のふるさと」は何度でも召喚される。今回の「二人展」が二度目の「霧のふるさと」であるように。それは何度でもいつでもどこでも、誰の身においても繰り返されうる。 *本稿の執筆にあたって、ギャラリーで配布された解説の冊子、および会期中に開催されたトークイベント(池田、本田参加)での発言を参照した。 (『美術手帖』2024年7月号、「REVIEW」より)
文=椹木野衣