ドイツ製高射砲の国産コピーでB-29と対決【99式8cm高射砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 中華民国は1910年代からドイツとの間で兵器や軍事面、さらに経済面での交流を行っていた。とはいっても、中華民国側が一方的にドイツ製兵器の輸入やライセンス生産を行い、それを利用した戦い方をドイツ軍事顧問から学ぶという「売り手で師匠のドイツ」と「買い手で弟子の中華民国」といった関係ではあったが、これを「中独合作」と称する。ゆえに日本と中華民国の間で紛争が生じると、中華民国側の兵器には、ドイツ製のものもかなり含まれていた。 そういったドイツ製兵器は日本側に鹵獲(ろかく)されるケースが多く、数がまとまって鹵獲されたり、有用と思われる鹵獲兵器は、日本側で再利用されることも稀ではなかった。そしてその中に、ドイツの老舗名門兵器メーカーであるクルップ社が製造した8.8 cmSK C/30 海軍砲が含まれていた。 8.8 cmSK C/30は元来、艦載高角砲(こうかくほう/高射砲)として開発されたが、初速が速く弾道が低伸するので小型艦艇の平射砲(へいしゃほう/艦砲)としても転用された優秀な砲だった。そのため日本陸軍は、鹵獲した同砲を克式(「クルップ式」の意)8cm高射砲として再使用した。 当時、日本陸軍の主力高射砲は1928年に完成した88式7cm野戦高射砲だったが、航空機の性能向上は日進月歩であり、性能面で同砲はすでに限界であった。それに比べて克式8cm高射砲はより高性能だったことから、日本で同砲の海賊版を造ることにした。そして実際に海賊版も完成したが、日独伊三国軍事同盟が締結されると、クルップ社に対してロイヤリティーが支払われている。 「アハト・アハト(ドイツ語で「はちはち」の意)」の愛称で呼ばれた、かの8.8cmFlaK18/36/37シリーズの高射砲を開発したクルップ社の製品だけに優れた砲だったが、名称が「99式8cm高射砲」と「野戦高射砲」ではなく単に「高射砲」とされたのは、基本的にコンクリートなどで造られた砲床に固定されて使用される砲で、機動運用が困難だったためだ。それでも日本陸軍は、運搬手段や野戦砲床を開発して機動力の付与に努力した。 しかし要地防空にはきわめて有効で、準制式されて1942年から生産が始まり、太平洋戦争末期の日本本土防空戦で奮戦。高高度飛行中のボーイングB-29スーパーフォートレスも狙えたため、相応の戦果を得たと伝えられる。
白石 光