史上最年少14歳でプロになったテニス選手が、なぜパティシエールに!? 23歳でママプレイヤーにもなった西村佳奈美さん「食べた人が笑顔になるお店を目指して」
テニスのため、小学生で毎週末1人大阪→神奈川へ! 中1では海外遠征も経験
西村さんのテニス人生は、幼少期から厳しい父親の元で練習を重ね、小学校高学年になると毎週末1人で大阪から夜行バスに乗り、伊達公子さんや杉山愛さんも所属していた神奈川県の荏原SSCへ。好成績を残して評価される一方で、テニス漬けの日々で学校は休みがち、辛いことも多かったと言います。 ――テニス時代のお話を伺います。どんなお子さんでしたか? 【西村さん】:運動が好きで活発だったと思います。親がテニスの英才教育をしていて、テニスに役立つようにとほかの習い事もすすめられて小3くらいまでは水泳、ダンス、空手、あとはミニバスもやっていました。4年生になるとテニスと水泳だけになりましたね。 ――プロを目指したタイミングは? 【西村さん】:小学校高学年くらいから大きくなったらグランドスラムに出てとか、言うようになっていました。ただ、プロを目指そうと思ったのも自発的というよりはそういう風に父親から仕向けられていたから。『お前は大きくなったらテニス選手になって活躍するんだ』って言われていて、厳しい親だったので、自分でなにかを考えられる時間も与えてもらえなかったと思います。先ほど話したパティシエになるって言った夢も、もっと幼い頃の話です。 ――特に苦労したことはありますか? 【西村さん】:1人で夜行バスに乗って大阪から神奈川の練習場まで通っていましたが、大変だと思ってもいなかった。それが当たり前だったので。当時は強くなるためにと1年の半分が海外生活で、ほとんど学校にも行けなかったので、周りと違うことも当たり前でした。 一番の苦痛は1人で海外に行った際、飛行機が遅れたり、荷物が届かない、ホテルがとれていない、現地で練習相手が見つからないなどのトラブルが起こったとき。誰も助けてくれないので自分で対応しないと解決しない。大変でしたね。 中学1年生にして1人でヨーロッパなど海外に行き、英語や時には中国語も駆使してトラブルも自分で解決する…ものすごいタフになりそうな生活だが、西村さんは「タフになるというよりも途中から精神的に壊れてしまった」と当時を振り返り本音を明かします。 ■ママとしてのアスリート生活も困難が多数 その後テニスは怪我で引退。しかし結婚、出産を経て、ママとして再びコートに戻ります。 ――ママとして戻るアスリート生活はどうでしたか? 【西村さん】:まず日本には現役のママプロアスリートはほとんどいないですよね。やはり旦那さんのサポートがないと、選手自身が動きにくいからだと思います。 私も独身時代に比べると本当に時間がなくて、練習も試合も夫に子どもの事をお願いしてやるしかない。家族の支えがないと難しいです。 あとは体形の変化もあります。私は上の子を妊娠した時に20キロ以上体重が増えてしまい、減量してコートに戻ってみたら出産で体が変わっていて。特に骨盤のゆるみがひどすぎて、激しく前後左右に動くと体幹がぶれちゃうんです。それが戻るのに1年以上かかりました。 ペースを落としながらもママテニスプレイヤーとして活動を続けていき、その後、第二子を出産。上の子にはテニスをやらせたが、あまり興味を示さなかったからスパッとやめさせたそう。もちろん今後はまだわかりませんが、自身の経験もあり「無理やりにはやらせたくないな」と話します。