「アッコにおまかせ!」終了説が出た和田アキ子の限界 強面キャラが本物の権力者として批判されるように
和田アキ子は1950年に大阪府で生まれた。父親は料亭を経営しながら柔道の指導をしていた昔気質の人物。母親は乾物屋を営んでいた。家庭では父が絶対的な権力者として君臨しており、子供たちは全員敬語で接していた。家族は全員、父に脅えながら暮らしていた。 家庭での抑圧が強かった和田は、その反動で非行に走った。小さい頃から体が大きかったため、街を歩いていてもからかいの対象となることが多かった。それを聞くと思わず手が出てしまう。ケンカ、酒、タバコに明け暮れ、「ミナミのアコ」として恐れられていた。
■人生を決定づけた洋楽との出会い そんな和田の人生を決定づけた出来事があった。それは、中学のときのこと。初めての英語の授業でショックを受けた。 「『ハウアーユー』って何やねん」 自分には全く理解できない新しい言語に触れて、新鮮な驚きを感じた。負けん気が強かった和田はそこで「ナメられてはいけない」と思った。さっそくレコード店に向かって適当に洋楽のレコードを買い、それを何度も聴いて英語の歌を覚えた。そして、友達の前で披露するようになったのだ。そのとき買ったレコードがレイ・チャールズの『愛さずにいられない』。のちに親交を深め、「レイちゃん」と呼んで慕うようになる世界的ソウルシンガーをこのとき初めて知った。
歌に目覚めた和田は、ジャズ喫茶やダンスホールに出入りするようになる。そこで他人が歌っているのを聴いた和田は「私のほうがうまいんちゃう?」と感じた。すぐに舞台に上がり、自ら歌うようになった。その様子を見ていたホリプロ社長(当時)の堀威夫が彼女をスカウトして、歌手としてデビューすることが決まった。 しかし、生活は苦しかった。ほとんど休みもないのに給料は月3万円のみ。寮の代わりに社長の自宅に居候していた。社長に気を使っていた和田は、ご飯のおかわりを申し出ることもできず、いつも空腹に苦しんでいた。近所の寿司屋で「ちらし寿司3人前を食べきったら無料」という企画をやっていたので、トイレで吐きながら無理矢理全部食べたこともあった。