竹中直人さんらも通った!文化人御用達、老舗喫茶店看板メニューの誕生秘話 東京・国分寺『ほんやら洞』の名物カレーはこうして生まれた
待ち受けていた試練とは?
しかし、営業を開始してしばらくたってみると、目の前には厳しい現実が待っていた。開店当時は29歳。木造駅舎で周辺が田畑だらけの国分寺には、そもそも人が少なく、喫茶店にもそれほど人が入らなかったのだ。目の前の通りには人よりたぬきの方が多いくらいだった。1977年には店の大改装も行った。その後もしばらく赤字は続いたが、芸能人としての収入があったことで何とか店を存続し続けることができたという。
子どもが生まれ、赤字だった喫茶店に変化が訪れる
転機となったのは、1988(昭和63)年。子どもができ、シンガー・ソングライターという仕事以上に喫茶店の仕事に本腰を入れていくことを決意した年だったという。この時生まれたのが、現在の店主、宮本 一平さんだ。
バブル崩壊と共に軌道に乗り始めた理由とは…?
宮本さんが当時の状況を説明してくれた。 「私が生まれてから数年後の1990年代から店の売上は徐々に回復していったようです。88年に駅ビルが立ち、またバーとして夜営業も行う様になったのが功を奏したようで、91年にちょうどバブルが崩壊して、それまで都心のバーに足を運んでいたようなサラリーマンの方も手頃な店に足を運ぶようになり、客層が広がりました。当初、料理はモーニングや定食程度しかありませんでしたが、この頃に店の看板メニューを作りたいということで始めたメニューがカレーだったのです」
初めは甘かった?伝説のメニュー誕生
とはいえ、初めに提供していたのは今とは異なる「欧風カレー」だったという。2004(平成16)年を迎え、カレーの味をリニューアルしたいと思っていた頃、ネパール人の客から「ネパールのカレーレシピを教えようか?」と言われたのがきっかけで現在の「スパイシーチキンカレー」が生まれた。 「その時母がレクチャーしてもらったのは、ココナッツカレーだったのですが、日本人にとっては甘すぎたそうです。そこで甘みのある食材を省き、スパイスを足してシャープさを追求していったところ、今度は辛くなりすぎて当初のお客様にこんなカレーはカレーとは言えない!と怒られてしまったそうです。そこから徐々に辛さをやわらげ、辿り着いたのが今の味です」 新しくなったカレーはじわじわと客の支持を集めた。いつしかこのカレーのために店を訪れる人も現れるほどの人気メニューに成長していったそうだ。