セゾングループを築いた堤清二。パルコやファミリーマート、無印良品を誕生させた考え方とは
◆資本の論理と人間の論理 堤清二は、1979年に刊行した著書『変革の透視図』で、流通産業は「資本の論理」と「人間の論理」との境界領域にある「マージナル産業」であると規定した。 「流通産業は商品が消費者の手に渡って、交換価値から使用価値に転化する場所に位置しており、いいかえれば、資本の論理と人間の論理の境界にたっている産業だと考えられる」と表現している(堤1979)。 交換価値とは、売り手にとっての価値に属するもので、価格で表現され、高ければ高いほどよい。対して、使用価値とは、消費者にとっての価値であり、生活欲求に応える有用性で判断される。 堤は、自ら従事する流通産業の存立基盤を、この異質な基準をもつ二つの価値をつなごうとする点に求めたのである。 交換価値から使用価値への転化という捉え方は、マルクスの『資本論』をベースとするが、堤の議論は、その転化の先を人間の論理と読み換えたところに特徴があった(由井編1991b)。 学生運動の経験を持つ彼にとって、マルクスの『資本論』はその頃から縁の深い本であったが、1970年代後半になって読み直してみると、同書の「消費」の規定のなかに、「本来、人間の個性的な生活過程であるべき消費」という記述があることに気づく。 「本来、人間の個性的な生活過程であるべき」という部分は、「学生時代に読んだ時は完全に読み落として」いたのだという(『RIRI流通産業』1996年5月)。 消費を「個性的な生活過程」という人間の論理に引きつけて読み込もうとする堤のこうした読み方が、1970年代という時代の影響を強く受けたものであったと理解できよう。
◆堤が見据えた流通改革がもたらすもの このことに関わって、堤のマージナル産業論が、以下のような論理で1960年代的な流通革命像を否定した点が注目される。 すなわち、1960年代の流通革命は、資本の論理によって流通産業の「近代化」をめざしたもので、後発工業国日本では、生産部門に比べて発展が立ち遅れてきた流通産業を「近代化」していくことはたしかに必要である。 しかし、流通革命がめざす大量流通は、画一的な大量消費を求めることにつながり、それは生活様式の画一化をもたらす資本の論理にほかならない。本来、生活様式は多様で個性的な人間の論理に立脚すべきで、資本の論理を貫徹させるべきではない。 資本の論理の貫徹による「近代化」こそが人間の幸福を約束する、という前提そのものが、大きな誤りなのである。堤はこのように説いて、流通革命の隘路を強調した。 参考文献: 老川慶喜(2024)『堤康次郎――西武グループと20世紀日本の開発事業』中公新書 御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一編(2015)『わが記憶、わが記録――堤清二×辻井喬オーラルヒストリー』中央公論新社 由井常彦(1991a)『セゾンの歴史――変革のダイナミズム』上巻、リブロポート 由井常彦・田付茉莉子・伊藤修(2010)『セゾンの挫折と再生』山愛書院 加藤健太・大石直樹(2013)『ケースに学ぶ日本の企業――ビジネス・ヒストリーへの招待』有斐閣 堤清二(1979)『変革の透視図――流通産業の視点から』日本評論社 由井常彦編(1991b)『セゾンの歴史――変革のダイナミズム』下巻、リブロポート ※本稿は、『消費者と日本経済の歴史 高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中公新書)の一部を再編集したものです。
満薗勇