「総会屋事件の主任検事をやってもらうからな」平成事件史:戦後最大の総会屋事件(6) 「最強」捜査機関の実像
司法記者クラブのP担(検察担当記者)への対応は原則、特捜部長と副部長があたることになっている。検察は、記者が幹部以外のヒラ検事や検察事務官に接触することを禁止しており、ヒラ検事との接触が幹部に伝わった場合、そのメディアは「出入り禁止」となり、ペナルティの段階によって、次席検事の会見や特捜幹部への取材が禁止となる。もっとも、独自ルートを持っている記者には「出入り禁止」は何の効果もない。 司法記者が特捜検事との接触を試みる時間帯は主に出勤時と帰宅時だった。夜は外から特捜部の窓の灯りが消えるのを確認して、検事宅に向かうのだ。身柄を持っている場合などは連日、東京拘置所で長い取り調べを終えて終電以降に帰宅する。深夜に記者が自宅周辺で待つと近隣の迷惑にもなりかねないため、熊﨑は当時、よく世田谷区砧の自宅近くのスナックを使って記者対応をしていた。 当時、最も若手のP担(検察担当)だった秌場聖治記者(TBS)は振り返る。 「熊さんと番記者が行くのはだいたい世田谷通りから少し入った日大商学部の近くにあった『セカンドハウス』というスナックだった。近所の常連がカラオケで美空ひばりの「車屋さん」を歌うような気さくな店で、20人も入れば一杯だった。 夜が深まると、熊さんが『そろそろイチイチやるか』と言って、ようやく店内で、各社数分ずつの『持ち時間』で個別対応に応じてくれた。熊さんはときどき特捜部の佐々木善三さんらにも声を掛けて、店に連れてきた。新聞社は常に朝刊締め切りの『午前1時半』を意識していたが、それを過ぎることも普通だった」 秌場たち番記者は当時流行していたSMAPの「ダイナマイト」や「青いイナズマ」、安室奈美恵の「Don’t Wanna Cry」などをよく選曲した。それらの歌詞を、特捜部がその時期に、まさに内偵捜査を進めている事件にひっかけた「替え歌」にして歌い、熊﨑の反応を見た。 その時の熊﨑の微妙なリアクション、言い回しの変化をとらえ、捜査の進捗状況や強制捜査着手のタイミングの糸口を探ったのである。
【関連記事】
- 平成事件史:戦後最大の総会屋事件(4) 突然の「自白会見」と内部告発した元社員の逮捕
- 「強制捜査を延期できないか」ー平成事件史:戦後最大の総会屋事件(5) “ガサ”めぐって起きていた水面下のトラブル
- 平成事件史:戦後最大の総会屋事件(7) 「第一勧銀」と大物総会屋 「呪縛」はなぜ断ち切れなかったのか
- 平成事件史:戦後最大の総会屋事件(8)第一勧銀元会長を取り調べていた特捜検事はなぜ東京拘置所に向かったのか 後輩に掛けた最後の言葉「中村くん、すまない」
- 「自宅には記者諸君がいるので返事不要」“政界のドン”金丸信の逮捕 着手前夜、特捜部長が「10分の待機」の裏でかけた電話 ~金丸脱税事件から30年(1)~