「総会屋事件の主任検事をやってもらうからな」平成事件史:戦後最大の総会屋事件(6) 「最強」捜査機関の実像
熊﨑は「現場が組織全体を支えている。常に現場がどう考えているのかを知りたい」との思いから、現場の特捜検事と積極的に意思疎通を図った。そうした現場との結びつき、現場に入り込んで都合の悪いことも聞くというやり方は、のちにプロ野球のコミッショナーとなっても変わらなかった。折に触れて部下に「一杯いくか」に声を掛け、連れていく店が東京・渋谷の行きつけのスナック「洋子」だった。熊﨑はかつてこう話していた。 「いい仕事をした検事は、ほおっておいても機嫌がいいから大丈夫。調べが不足しているとか、ブツ読みが進んでいない部下と飲みにいく」 熊﨑の所在がわからないとき、筆者は「洋子」に向かい、店から出てくるのを待って接触した。事件の節目には、店内から熊﨑が「同期の桜」を歌う声が聞こえてきた。若者が集まる華やかな渋谷のセンター街から、細い通りを入った路地にあった。なぜその店かと言えば、もともと店のママと、かつて特捜部にもいたS検事(20期)(のちに法務省矯正局長、広島高検検事長、高松高検検事長)が福岡出身で同郷だったことから紹介されたという。 主任検事だった井内顕策(30期)も当時を懐かしむ。 「夜、霞が関の検察庁からタクシーで渋谷の『洋子』に向かうときは、ちょうど当時住んでいた麹町の官舎の前を通りすぎていたので、『ここで降りたらそのまま帰宅できるのに』とよく思いながら付き合った。熊さんは元気だから、午前2時や3時まで飲むこともあったが、そうした熊さんの部下への気配り、特捜部の風通しを良くしたいという配慮が身に染みた」 ゆるぎない結束を固めながら、その後1年以上にわたり、特捜部は法務省や全国の地検などからも応援検事を投入し、前例のない規模の捜査体制を整え、「4大証券・第一勧銀、総会屋事件」「大蔵省接待汚職」という「聖域」に切り込んでいく。 「応援検事は熊さんがある程度、実力や評判を知っていて呼んだ検事が多かった。第一勧銀ルートの葉玉匡美さん(45期)や奥村淳一さん(36期)、日銀接待ルートの長澤格さん(46期)など優秀な人が多かった」(元特捜検事) 副部長だった山本修三(28期)は振り返る。
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