「日本の古典」と「西洋の古典」の大きなちがい…じつは「地名」の扱い方に、こんなに差があった
「和歌」と聞くと、どことなく自分と縁遠い存在だと感じてしまう人もいるかもしれません。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 しかし、和歌はミュージカルにおける歌のような存在。何度か読み、うたってみて、和歌を「体に染み込ませ」ていくと、それまで無味乾燥だと感じていた古典文学が、彩り豊かなキラキラとした世界に変わりうる……能楽師の安田登氏はそんなふうに言います。 安田氏の新著『「うた」で読む日本のすごい古典』から、そんな「和歌のマジック」についてご紹介していきます(第11回)。 この記事は、『さまざまな技術を駆使した「超絶技巧」、日本の古典に登場する「道行」のスゴさを堪能してみる』より続きます。 前の記事では、能において、現実と夢幻のあいだにあって「神」や「幽霊」を呼び出す者として「ワキ」という役割があること、ワキはさまざまな場所を漂泊するが、その道中は「道行」という謡で表現されること、そして、そんな「道行」は、能が成立する以前、神話や軍記物語などでも描かれていることを解説しました。 以下では、西洋の古典における「道行」がどのようなものだったか、それは日本の古典での「道行」とどう違ったのかを解説します。
西洋の道行の歴史
日本では神話時代からあった道行ですが、西洋の古典に目を向けてみると、『イーリアス』や『オデュッセイア』などの神話叙事詩やギリシャ悲劇などの中にはなかなか見あたりません。 『オデュッセイア』は、ギリシャの英雄オデュッセウスの漂泊の旅を歌った叙事詩で、それ自体が道行的な作品なのですが、地名を読み込んで旅するといういわゆる道行形式のものは作品中に見つけることはできません。ただ、求婚者たちの霊魂が神に従って歩く、霊魂の道行があります。 霊魂の群はちち、ちちと啼きつつ神に随い、助けの神ヘルメイアスはその先頭に立って、陰湿の道を導いて行った。オケアノスの流れを過ぎてレウカスの岩も過ぎ、陽の神の門を過ぎ、夢の住む国も過ぎると程もなく、世を去った者たちの影──すなわち霊魂の住む、彼岸の花(アスポデロス)の咲く野辺に着いた。(『オデュッセイア(ホメーロス)』24歌 松平千秋訳)