「日本の古典」と「西洋の古典」の大きなちがい…じつは「地名」の扱い方に、こんなに差があった
十字架の修行とは
ギリシャ悲劇では、アイスキュロスによる『アガメムノーン』の中に狼煙の道行、聖火(松明)の道行があります。 そして合図のかがり火は、火をかざして駆ける早馬のように、かがりの報せをこの館まで送りとどけた。まずはイーダーの頂きからヘルメースの岩があるレームノス島へ、そして島から3番目の炎を高々とうけついだのは、ゼウスのましますアトースの断崖絶壁、こうして海原の背をかすめるように飛びこえていく松明のいきおいは、好きほうだいに光を散らし、(中略)……燃える火は、サローンの入江を眼下にのぞむ岬の大岩を跳びこえ、そして落ちてきました。届いたのです、荒蜘蛛山の尾根にまで、都のうらの見張りの塔に。そしてそこからアトレウス御殿に降りてきました。『アガメムノーン(アイスキュロス)』久保正彰訳 西洋で道行といえば十字架の道行(Stations of the Cross)も有名です。イエス・キリストの死刑宣告から、ゴルゴタの丘への道を歩み、十字架にかけられ、埋葬され、そして復活するまで15の場面(留:stations)をたどる道行です。聖堂の壁にはおのおのの場面の聖画が掲げられ、聖堂内を歩きながら祈りを捧げます(復活は「留」には含めないことが多く、祈りも祭壇側に向かって行われる)。 あるいは実際にキリスト受難の場を歩いたり、それぞれの場面を観想しながら祈りを捧げたりもします。バッハの『マタイ受難曲』では十字架を象った音型が使われます。 日本の道行を知るものには、『オデュッセイア』の霊魂の道行も『アガメムノーン』の狼煙の道行も「道行」と呼ぶにはちょっと抵抗があります。地名は確かに読み込まれてはいるけれども、地名に重層的な意味はありません。 * 『日本の「土地」には「神や霊や念」がやどっている…「日本の古典」を読むと、強くそう思える理由』(11月2日公開)へ続きます。
安田 登(能楽師)