ミャンマー軍事クーデターからまもなく4年、日本に住む難民申請者のその後 「緊急」措置から取り残された男性と、介護現場で働き始めた女性 #ニュースその後
入管職員が告げた言葉
いま、マウンさんは3カ月に1回、「仮放免」の更新のため東京出入国在留管理局(東京港区)に出向いている。 今年8月の手続きの際、入管職員が放った言葉にショックを受けたという。 「6月でルールが変わった。難民申請が3回の人は、すぐに返すことができる。知っていますか?」 今年6月、改定入管法が施行され、3回以上の難民申請者は申請中であっても強制送還が可能になった。だが、軍事政権と少数民族や民主派武装組織との戦闘は激化し、情勢に好転の兆しはない。国軍は徴兵制の実施を発表、国民に武器を向けたくない若者が国外に出るなど離反していると伝えられる。「帰国すれば迫害される」と訴えるマウンさんに、「国に返せる」と言ったのだとしたら、何の意味があるのだろうか。 自分で働いてお金を稼ぎ生計を立てることができない…、それは人としての尊厳を奪われたも同じだ。少林寺拳法の稽古は、先の見えないつらい日々を、ほんの一瞬忘れさせてくれる大事な時間になっている。 マウンさんの仮放免の保証人で、よき理解者でもある先生が語る。 「お国が大変な時期なので、みなさんとコミュニケーションをとって楽しめることが大事だと思う」 「もし在留資格が得られたら…」、そう尋ねると、マウンさんは答えた。 「軍事政権を倒して新しい政府ができるまでには、まだ時間がかかると思う。自動車の整備の専門学校で勉強して、仕事をしながら頑張っていきたい」
明日が見えなかった日々
一方で、新たな道を開くことができた人がいる。少数民族カチンの女性ルルさん(仮名)を訪ねた。 「前よりはいいです。少し、少し、進み始めています」 2年半前に会った時は、まだ3回目の難民申請の結論が出ず、「緊急避難措置」は適用されていなかった。「仮放免」中で、働けない、健康保険もない状態で、当時の取材メモに残る言葉に「希望」はない。 「いつ捕まるか、明日のことはわからない。前は、何になりたい、何がほしいという気持ちがあった。でも長い間何もできなかった。それを考えることが苦しい。人間じゃないみたい。(40代の)この年になって、みんなに迷惑をかけていて、本当は私がいろいろしてあげないといけないのに」 父は軍事政権と戦う武装組織カチン独立軍(KIA)の将校だった。ルルさんら4人のきょうだいは祖母に育てられ、軍の迫害を恐れながら住む場所を転々とした。ルルさんも学校を7回変わらざるをえなかった。日本での難民申請では、こうした事情を訴えたが、認められていなかった。 コロナ禍の21年9月、「私は死んでいたかもしれない」ところまで追い込まれた。 新型コロナワクチンの注射を受けた後、高熱が続いた。PCR検査で陽性反応が出た。たまたまその時、先の渡辺弁護士と打ち合わせが控えていたことから「コロナになっちゃったので行けません」と連絡した。深刻な病状に気づいた渡辺弁護士が救急車を呼んだ。それで入院ができた。夜中になって肺の状態はさらに悪化し、酸素吸入にまで至った。 「息ができない、すごく苦しかった。もし1人で家にいたら、どうしていいかわからなかった」 渡辺弁護士によると、それでも保険証がないルルさんは「救急車にはお金がかかりませんか」と心配していたという。