なぜトランプが勝利し、リベラルは負け続けるのか…多くの人が見過ごしている「問題点」
民主主義とアメリカの危機?
知らされていたが、やはり現実になったことに驚きと戸惑いがある。しかし、実現してみると意外と違和感がなく、体感レベルではそういう世界の変化を感じていたこともわかる。ドナルド・トランプ氏が民主党のカマラ・ハリス氏に勝利し、アメリカの次期大統領になることが決まった。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 トランプ氏のキャラクターは強烈であるが、今回の大統領は氏が勝利したという以上に、対抗したカマラ・ハリス氏とアメリカ民主党が支持を得られなかったという意味が大きい。「リベラル」の危機である。私自身、イスラエルが残虐な軍事行為をエスカレートさせていくことに対して、有効な介入を行おうとしない民主党のバイデン大統領とその政権に強い失望を感じていた。「民主主義」の原則を、それを国是とする大国アメリカが自ら破っていると考えたのである。 トランプ氏が発しているメッセージは、民主主義の旗頭として世界をリードするという役目を放棄し、アメリカの国益を最優先する政策を実行していくというものだ。これは、同盟国である日本にも大きな影響を与えると考えられる。 実際に、昨今言われている「民主主義」の危機であり、一部の富裕層とそれ以外の分裂が激しくなっていると言われるアメリカの危機である。この危機に対して、日本と日本人はどう対応するべきだろうか。 この危機を、無意識に近い深層心理や政治思想などの観点から分析したい。分析を進める前に断っておきたいことがある。この先に書くことは私が「日本的リベラル」について分析してきたことと重なることが多い。しかし、今回身に沁みて理解したのは、それは日本だけの問題ではなく、アメリカを含む世界中の「リベラル」の問題だったということだ。憧れがあった。西欧は、他のことはともかく「民主主義」についてはしっかりとしているのではないかと。自分のナイーブさを恥じる。 アメリカにもたらされた分裂は、民主党に代表されるリベラル勢力に内在する問題点が表面化したものだ。したがって、これらの勢力が自分自身の問題と向き合い、身を切る努力をして乗り越えなければ解決できない。 民主主義はその出自として前近代的とされる封建主義、民族主義、地域主義などを否定することによって成立した。したがって、王政のような身分制、年功序列、男尊女卑などの価値が実生活で影響力を発揮しているのを見ると、それを転覆させようとする傾向性を持つ。 さらに、第二次世界大戦について西欧のリベラル論者たちは、これを民主主義とファシズムの戦いだったとして、前者が後者に勝利したことに普遍的な意味と価値があると規定した。したがって、ファシズム的な、「集団や社会を一つにまとめるようにする動き」に対しても、それを本質的には悪だと規定し、そういった機能を停止・遅延させることを目指す。 しかし政治は、現実的なバランスを見ながら実施されなければならないプロジェクトである。11月2日に発表した「国民が愚かになっていくとき…『タテ社会の論理』への過剰な依存がもたらす『深刻な事態』」という記事で私は、「タテ社会の論理」への過剰な依存を批判した。しかし同時に、「タテ社会の論理」の完全な放棄や全否定も望ましくないと論じた。そしてこの後者の「タテ社会の論理」の放棄や全否定が、アメリカ民主党に代表されるリベラル勢力に内在する問題点である。 この点について、非常に単純化した例を示す。「男が女より偉い」というタテ社会の論理に依存している人は、今回の選挙戦でトランプ氏がハリス氏に勝利した理由について、「男の方が女より偉いからだ」と考えるかもしれない。将来に向かう対策を考えるためには役に立たない分析である。しかし、それを単純に逆転させた「男女平等のために女を男に勝たせなければならない」というロジックを平気で語る、身分や名声のあるリベラル知識人は少なくない。 アメリカでは白人男性が勝利を得やすい状況があったし、現在でも場面によってはそれが残っている。リベラル勢力はそれに対抗するために女性や少数民族や移民が勝ちやすい状況を準備した。それには重要な意味があり、そのことで世界中の人はアメリカを尊敬し、憧れた。しかし、リベラルの主張が社会の中で浸透し、影響力が増してきたならば、別の責任も担わなければならない。しかし、多くのリベラル論者たちはそれに向き合わなかった。自分たちが打倒してきたのは、男性社会の中でも地域や組織をまとめ、自分がリーダーを務める集団の政治的な地位や経済的な優位を築き、確保してきた人々だった。そして、それらの人々を打倒した責任として、その人々が対応してきた人々の現実的な生活が円滑に行くように計らう義務が生じることを無視し、それを放棄した。現実的な地域の政治や経済をまわす場面について、重要な地位を、実務能力よりも「リベラルな価値観である多様性」の看板を優先した数合わせを重視して分配した。その結果、社会の活力や実力が低下した。そして必然的に、そのことについての不満が聞かれると、不満を述べる人々を「差別主義者だ」とリベラルの価値観に合わないと断罪し、切り捨てることを常態化させた。その中で、地域社会にコミットする人々の経済力が低下し、地域との結びつきを弱めて経済活動に専心する人々の優位性が高まった。 「タテ社会」への過剰依存が、現実に向き合わずにタテ社会の論理による調整だけで物事が解決できると信じる一つの低レベルのナルシシズムならば、「タテ社会」の全否定や完全な放棄もやはり、タテ社会の論理を逆転させた上での調整だけで物事が解決できると信じる別の同等に低レベルのナルシシズムである。 ナルシシズムの問題は複雑である。そして、根本的な解決はなく、人が生きている以上は、そのような問題があることを認識し、不断にそれと折り合いをつけていかねばならない。これは精神分析で強調された概念であり、その取扱いには例えば「性欲」の扱いと共通する部分がある。根本的な解決はない。それの全否定や放棄は間違っているし、不可能だ。しかし無制限にすべてが許容されて良いわけではない。 ナルシシズム、権力欲、自民族を優先する傾向、自分の出自の文化や歴史を優先する傾向は、人が生きている限りいつまでも続く事象である。それを完全に解決することはできない。必要で健康な部分もある。それぞれの場面で調整を続けるしかない。それを完全に解決できると考え、その限界を認識しないことが、アメリカ民主党をはじめとする多くのリベラル勢力が唱える言説が抱えている問題である。 もちろん、この問題の影響は日本でも大きい。